崇神天皇即位十年(紀元前88年)、大和の中央政権から派遣された大彦命によって、突然高志国の再編成が
行われた。命は越中伊豆部(イズベ)山の麓、杉野(婦負郡内裏野)に軍隊を駐屯させ、大急ぎで太田郷中地山
(卯辰山)に小城を築き上げた。そうして従軍の 部将の中から椎摺彦(シイズリヒコ)、手刀摺彦(タチズリヒコ)を
選び、夫々大将及び副将として越中全土の統治を続ける様に命じた。此の城は中地山城と云ひ全軍の中核とな
る城である。立山線千垣駅附近にあって星城とも云はれた。
大彦命が天皇の命令によって強力な軍隊と共に派遣される迄は、高志国の豪族達の大部分は、大和朝の命令
に服従せず、山代(ヤマシロ)国の建波邇安王(タケハニヤスノミコ)の様に、天皇に積極的な反抗を示す領主も少
なくなかった。しかし大彦命は各地に彼等を打ち破って、ようやく高志国を平定することが出来たけれども、戦後の高志国の再編成と治安維持は、武力の他に政治的手腕を必要とする中々の難事であった。斯かる大役を命ぜられた椎摺彦、太刀摺彦は武勇の点よりも、政治力や人徳の点で勝れていた人物らしい。しかも大和地方に居た時には鉾や刀の製造や修理の責任者であった。高志国で厳然たる占領軍の武威を示すには、彼等が当時としては最高級であった夫等の武器を自力で充足拡充してゆける技術者である事が極めて好都合と思われたのだろう。
大彦命が大和を出発したのは崇神10年10月で、大和に帰ったのが翌11年4月であったから、高志国に留まり得た期間は極めて短く、しかもそれは厳寒の冬期である。斯かる悪条件下、しかも短期間に何程の工事も出来る筈がないから、中地山城は城とは名ばかりの極めて貧弱な山塞でしかあり得なかった。従って大彦命の帰った後も、中地山城の補強工事はたゆまず続けられた。しかしそれと同時に卯辰山を中心として、遠く八方に衛星的城塞を建設する事が急務であった。
天皇に反抗した者達が短期間に討ち滅ぼされ、皇軍の強さを思い知らされた高志国の日和見的であった他の豪族達は、保身の為と、更に若干の分前にありつこうとして、椎摺彦に絶対的忠誠を申し出る者が続々と出現した。之等の者達の中から勢力もあり天皇派と親しい関係にある者が選ばれて、重要な地位につけられたり、新たに土地を分け与えられたりした。斯かる人事を担当したのは副將手刀摺彦であった。手刀摺彦は之等の帰順者達の中から更に十二人を選んで、十二城を築かせたが、その中で
「喚起泉達録」によって明確に伝えられているのは、次の八將六城だけである。
沢古舅…国勝長扶の末孫、貞治命の玄孫である。東城を築いた。此の城跡には後代になってから角間城が築かれた。
富崎舅…能登鳳至山中に住んだ釜生(カマナリ)彦の六世孫である。熟城を築く。此処には後世になって厚根城が築かれた。厚根城祉は石動町にあって、現在では其処を城山と云って居る。山頂の城祉は狭い平地となっているが、此処からは厚根城時代の古銭や、熟城時代に使用したと思はれる土師器の破片が採取されて居る。釜生彦は不思議と石動町に関係の深い神で、その子孫に当たる八千彦も、此の頃、熟城に程遠からぬ糸岡郷に住んで居た。彼は銅鉄を鋳、鍛冶を善くしたと伝えられて居る。石動町の糸岡方面では極めて近年迄、鍛冶業が盛んであったが、それは八千彦時代からの影響に基ずくのかも知れない。
甲良彦舅…能登方面に勢力のあった兜彦の末孫である。黒郷念仏谷に辻城を築く。此の城跡には後代になって日宮城が築かれた。此処は今の小杉町附近である。
玉椎老翁…玉生姫の子孫。富崎の山頂に滝城を築く。後世になって白滝城が築かれた。これは富崎城とも称される。
高住舅…石比古命より六代の孫。安田山頂に安住城を築く。後世になり安田城が築かれた。此の城は平地にある城で、今の富山にある金城である。
美麻奈彦…速川姫命の子孫。新庄に辰城を築く。後世になり此処に萩城が築かれ、後に新川城が築かれた。
大路根老翁…幡生比古(ハタナリヒコ)命(ミコト)二上山に住み、後、射水神社に祭らる)の九代の孫。
雄瀬古…諸岡比古の子孫。
上記した在所の明白な六城の他に更に六城が築かれたが、夫等は越中国を形成する射水、砺波、婦負、新川の四郡の外側にあるらしく、中核となる中地山城から見た際の方角だけが記されて居る。しかも一城に就いては方角さえも示されて居ない。即ち子(北)方向、丑(北東)方向、寅(東北)方向、巳(東南)方向、申(西南)方向である。恐らく能登、加賀地方に分布して居るのであらう。之等所在不明の城の城主に任命された可能性のある豪族達の一人として、畔田早稲彦が最も有力である。彼は以前は黒牧彦と云ったが、帰順後に早稲比古と改名し、豪將の地位を与えられて居る。黒牧は大山町熊野川沿いの地である。他に有力な豪族達の首領として吉田久美彦、津地幸(ツチサチ)比古、室生比古、豊生比古、富崎長岡比古の名が知られて居る。
斯くして十二城とそれに付属した領土が、十二人の要領の良い人々に分けられたが、夫等の人々よりはるかに勢力もあり人望もあった阿彦には何等の沙汰も無かった。阿彦に土地と城を与えなかった不公平な人事が、阿彦を怒らせ、それが後程の大混乱の重大な原因を為した様に伝えられて居るが、仮令、椎摺彦が阿彦の協力を得たいと望んで居たとしても、神道と対立する阿彦の新思想や新政策を承認するわけには行かないし、阿彦も亦、椎摺彦の家来になる気持ちは毛頭持つていなかっただろう。
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