2:  阿彦王国の成立

  富山湾の海上(布勢の海)に強大な勢力を張って居た布勢の神、倉稲魂命(ウゲノミタマ或いはウガノミタマノミコトと称す)の子孫に布勢比古なる人物が居た。布勢比古の子を東条比古と云い、東条比古の子が阿彦である。しかし阿彦を東条比古の孫と述べて居る書物もある。阿彦一族は倉稲魂命時代から海上に勢力があった為か、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通して居た様である。殊に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、天孫族の神道政治とは異なった大陸的な専政君主政治を採用した。阿彦が此の新しい制度や組織を確立するのに最も功労の多かったのは、大陸からの帰化人で靺鞨(マカツ)族の鄭鶴(テイカク)、徐章(ジョショウ)の二人である。彼等は政治の相談役、軍事の参謀として終始阿彦を献身的に補佐した。鄭鶴の父は鄭令と云い徐章の父は徐範と云って共に渤海の人であった。当時渤海は沿海州と北朝鮮の一部を占める大国であったが、折からの内乱の為に、辛うじて祖国を脱出した一群の人々が、各々妻子共々に日本海を渡って高志国に逃れ来たり、越の水口(スグチ)(富山市草島)に住みついた。鄭令、徐範は之等の亡命者達の統率者であった。この時彼等が始めて日本へネギを移植したとも伝えられて居る。
 崇神天皇の頃は大和の中央政権の方でも、朝鮮の新羅から色々の珍しい工芸品や文化が流れ込んだ時期である。勿論之等の朝鮮文化はもともと支那から渡来したものであるから、本家の支那文化に比べれば遙かに低級なものであったが、天皇は此の天孫族の文化より可成り勝れた新しい支那文明が大和を遠く離れた辺境の地に流れ込み、其処に大和以上の文化圏が出来るのを恐れて、新羅の船も特定の港湾以外の場所に入港するのを禁じた。北鮮や支那ともなれば、明らかに敵国と考えられて居たので、天皇の支配下にある海の豪族達は総て、夫等の国の船が日本へ来た場合には武力を以て追い返し、或いは出来れば船を捕獲して乗組員達を打ち殺す様に厳命されて居た。高志国も天孫族の支配に服して以来、平野部は殆ど天孫族系の豪族によって占領され、天皇の海浜封鎖の命令もよく実行されて居たので、本来ならば渤海人の集団が高志国の海浜に定住するなぞ、決して許されない事であった。阿彦は東条比古から受け継いだ若干の海上勢力を持つて居た。これは祖先の頃とは比較にならぬ程貧弱なものであったが、山岳地帯に閉じこめられた阿彦の領土に、塩や各種の海の幸を供給して自給自足の能力を保たしめる重要な役目を担うものであった。亡命者達が阿彦方の船に捕らえられたのは全く運が良かった。彼等が高志国に逃げて来た迄の事情を聞いて、彼等が善良で危険の無い人々である事を知った阿彦は、之等の哀れな罪の無い人々を法に従って無惨にも殺してしまう気にはなれなかった。そこで阿彦は天孫族や他の豪族達に知られない様に、秘密裏に彼等を自分の海軍基地たる水口に住まわせた。かねて大陸文化に関心の深かった阿彦は、彼等の集団生活を見て、そのすばらしい文化に一驚し、益々大陸文化に心酔する様になった。阿彦は彼等に手厚い保護を加えると共に、彼等の高級な文化を出来るだけ吸収して、自国の文化を大陸の文化に劣らない立派なものにしようと思った。渤海人達も阿彦の求めに応じて、或者は宗教や学術を伝え、或者は珍しい食物を栽培し、又、生産された精巧な織物や工芸品等を提供して、阿彦の厚遇に報いた。阿彦は更に積極的に彼等の助力を借りて、政治を改革し軍備を増強したので、阿彦国の様相は急激に変貌し、実力は日に日に増大して行つた。
  しかし、阿彦の好意によって水口に安住の地を得る事が出来たと喜んだ帰化人達の平和な生活も永くは続かなかった。大彦命の北陸遠征軍が破竹の勢いで進撃して来るのを聞いた日和見的な天孫族系の豪族達は、天皇の命令に反して高志国に定住する外国人達を抹殺する事によって、天皇への忠誠の実を示し、同時に此の機会を利用して阿彦の海上勢力を奪取すべく、突然大挙して水口を急襲して来た。平和で無防備な帰化人達の部落は、俄に武装した多数の兵士達によって取り囲まれ、兵火に燃え上がる家々と共に、老若男女の別なく次々に虐殺されて行った。他方、神通川河口の海軍基地を守る阿彦の兵士達も大軍の攻撃に如何とも為し難く、逃げ道を探し求めながら捨て身の防戦を繰り返して居った。
  部落の長老であった鄭令と徐範は、このまゝ一族が死に絶えてしまう運命から逃れる為に、息子の鄭鶴、徐章を呼び寄せ、既に四囲がもうもうたる火煙に包まれたのを幸いに、その煙に隠れ万難を排して包囲網を突破し、親切な領主阿彦の下に行き、再度のお情けにすがる様にと強く命じた。二人は肉親達の絶叫を後に聞きながら、極めて少数の同族の人々と共に部落を離れたが、やがて幸運にも一方の血路を開いて逃げ延びて来た少数の阿彦の船兵達に拾われ、無事に阿彦の住む岩峅に到着する事が出来た。             
  勿論、阿彦にとって、水口の海上勢力を失った事は無念であるが、大彦命の大軍が来襲しつつある情勢では、総力を挙げて自国の防備を固めながら、表面恭順の態度を示して、無益な災難を避けるしかなかった。阿彦国の国力はまだ発展途上にあって、到底四囲を敵とし、更に大彦命の大軍を防ぎ得る程、強力ではなかったからである。斯かる阿彦の態度は充分に効果を発揮して、後程大彦命が高志国を平定した後も、格別阿彦を敵とは見做さなかった。
  鄭鶴・徐章の才能や武勇を高く評価した阿彦は、後程、彼等に副将の地位を与えて優遇して居る。阿彦より受けた再度の恩、更に思い掛けない厚遇に感激した支那人達が、各々自己の総力を傾けて阿彦の為に働いたのは当然である。この間の事情に就いては「肯構泉達録」に「鄭鶴・徐章に至り各々阿彦の恩を請け遂に阿彦に従ひける」と簡単に述べて阿彦の偉大さを読者に知られるのを嫌って居る。  阿彦には支那夜叉と称する姉がある。越後国黒姫山に住む邵天義と結婚して一男子を産んだ。之を支那太郎と云う。この様に母子共に支那の字を冠したのは結婚した相手が支那人だったからであろう。邵天義なる名前も日本人らしくない。又、支那太郎は幼少より怪力を有し母の支那夜叉と共謀して父邵天義を殺そうとしたのが事前に発覚した為、支那太郎が12・3才の頃、母子共に離縁されて阿彦の下に帰って来たと伝えられて居るが、無力な帰化人が豪族の娘を離縁するだけの勇気があったとは思えないし、若し邵天義に実力があったならば、それ程の大罪を離縁だけで許したのは不可解である。支那夜叉は高志の大豪族、東条彦の娘であり、邵天義は一介の帰化人にすぎない。だから此の結婚は邵の側から望んで得られるものではなく、支那夜叉側の意志により行はれたものに相違ない。然るに何の為に支那夜叉が邵天義を謀殺しようとするのだろうか。幼少の支那太郎に父親殺しの片棒を担わせるに至っては笑止である。又、他に夫婦間に不和を来す原因があったにしても、当時の日本の風習に従って男が娘の所へ婿入りすべき筈の所を、特に支那の制度を尊重して、娘を異邦人に嫁入りさせた阿彦の父東条比古の恩義に対しても、邵天義の側から離婚なぞ出来たものではない。恐らく大彦命の高志国討伐の際に戦死したのであろう。夜叉と云う言葉は後世になると兎角悪い意味に用いられて居るが、支那で用いる本来の意味は勇健・貴人・軽健であるから、支那夜叉とは支那人に嫁した強くて勇ましい貴婦人と云う事であろう。彼女は背が高く、健康で力が強く、色白で、目尻の切れ上がった、真紅な唇と真白な歯を持つた美人で、丈なす黒髪を持って居た。此の様に非の打ち所の無い美人も、悪意を持って伝えられると「喚起泉達録」が記す様に「此支那夜叉ト云ヘルハ尋常ノ人間ニアラズ、異形ナル事譬ヲトルニ競ル者ナシ、其丈七尺余、力ノ程量リ知レズ、面白ク、眼三角ニ裂ケ上リ、唇ハ朱ニ似テ、歯、長サ二寸、白石ヲ割リ並ベタルガ如シ、髪黒ク長キ事七尋ニ余ル」となる。
  阿彦は多くの有能な人材に扶けられて内政を改革し、次第に支那式の専政君主政治に変えて行った。此の制度によれば、阿彦は当然君主であり絶対の権力を有する。阿彦が「高志の国王」と名乗ったのも当然の急いである。しかし天孫族側から見れば阿彦の所行は全く言語道断の感があった。「高波八幡宮社記」には阿彦の悪行について「兇族ヲ集メ自ラ越ノ国王ト僭称シ、法制禁令ヲ専ラニシ、州民ヲ虐殺シ財宝ヲ椋奪シ、暴悪増長シ、国民ノ困難一方ナラズ」と記して居る。又「喚起泉達録」の記載では、阿彦が力持ちでありながら働かずに酒ばかり飲んで居たと云う程度の内容に乏しいものではあるが、書きぶりだけは次の様に、もっと大げさである。
  「世ニ恐ルヽ者ナシト身ヲ怠惰ニナシテ奢侈日夜ニ募リ、朝暮酒色ニ荒レテ暫クモ農業ヲ顧ミズ、適々是ヲ諫ムル者アレバ眼ヲ怒ラシ時ニ打殺シ、仮ニモ己ニ背ク者ハ排析捨ツル故、皆人怖ワナナキ、欲心熾盛ノ兇賊較ブルニ人ナク、本ヨリ欲スルニ及バザレバ、猛意ノ族ト云ハレシモ彼ガ強気ニ爛レ、今ハ嗟ノ裡ニ侫リ媚ブルヲ所全トセリ、故ニ何事モ彼ガ言ウ儘ナレバ、世ニ我有テ人無シト肘ヲ張リ弥々酒ヲ嗜ミ、只殺伐ヲ明ケ暮レノ弄ビ物トナシケルハ身ノ毛弥立ツバカリナリ」。
  「高波八幡宮社記」に謂う「法制禁令ヲ専ラニシ」とは、今迄の神懸かり的な神道の規則を無視して、支那の制度を取り入れた新しい法令を出した迄の事であり、此の法律に従はない者は其の定める所に従って厳重に処罰され、又、人々からは租税が取り立てられたが、それは「州民を虐殺し、財宝を掠奪し」として表現された。斯かる租税の制度は、天孫族の方でも丁度此の時代、崇神天皇の時から採用された事が知られて居る。即ち肉体労働を提供する今迄の旧い型の納税法に取って代わって、男には弭調(ユハズノミツギ)と云って狩りの獲物を献上させ、女には手末調(タナスエノミツギ)と云って織物を献上させる様になった。しかし阿彦の税制は天孫族の素朴な徴税法とは異なり、もっと組織的・合理的であって、色々の名目で租税が取り上げられた。今までの神道政治では自由であった行為や所得に対しても新に課税されたので、これを不満に思い脱税したり滞納したりする人も多かった。そうして之等の不心得者は徴税役人によって発見され次第罰せられたので、「国民ノ困難一方ナラズ」と云う事になる。阿彦の税制の中で特に珍しいのは結婚税の設定である。結婚は人生の大事で、一生の間に屡々行うものではないから、之に課税するのも正当な理由のある事と思はれるが、人々にとって此の結婚税は可成りの重荷であったらしい。
  阿彦の時代には婚期の娘達が嫁入りの途上で阿彦に強奪されるのを恐れて、極秘裏に嫁入・婿取の儀式を挙げたと云う伝承がある。これは何とかして結婚税をまぬがれたいと思い、結婚の儀式を極秘裏に行う者が少なくなかったのであろう。一方、阿彦の徴税役人は斯かる不心得な花嫁を人質として捕らえ、その家族が税金や罰金を支払う迄釈放しなかった。即ち極秘裏に結婚したから強奪されたのであって、伝承は原因と結果が逆になって居る。若し阿彦が暴君で、女が目的だったならば、未婚の娘であろうと、既に結婚してしまった女であろうと容赦しなかった筈で、何も手数を費やして結婚日をねらう必要があるまい。
  実際は、阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行つた。
  「婚の娘であろうと、既に結婚してしまった女であろうと容赦しなかった筈で、何も手数を費やして結婚日をねらう必要があるまい。
  実際は、阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行つた。
 

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