伝承の伝える所では、其後の戦闘で大若子命が圧倒的勝利を獲得して居る。阿彦軍討伐の状況描写は「肯構泉達録」に詳しく記載されて居る。それによると、鄭鶴・徐章は大若子命・甲良・椎摺・手刀摺の連合軍と美麻奈軍に挟撃されて討死し、阿彦は大若子命に打ち取られて居る。大谷狗は佐留太舅に生け捕りにされ、支那夜叉・強狗良は何処かに逃亡して戦乱は終結するが、之に引続く戦後処理の仕方が非常に不合理で、天孫族に都合の良い様に改変された事件の真相を窺わせて居る。之は此の伝書に先立って流布された「喚起泉達録」では、最終戦の様子が殆ど記載されて居ないのを良い事にして、阿彦や彼の部将達の結末を、天皇方に都合の良い様に辻褄を合わせて無理に創作した為に生じた不合理であろう。又、天皇方に不利な記載は、常に狂信的な御用学者達から弾圧を受けて、公開が不可能だった日本神話の独善的伝統から致し方の無い事情もある。修飾された日本史が再検討され、各地の地方伝承が再評価され、本来の史的地位を復活する事も可能になった有り難い現在の社会情勢に便乗して、高志国に根付いた阿彦伝承を正しく訂正する作業は、富山県に生まれ育った郷土史家の責任であるから、過去の記載の不合理な部分を夫々指摘しながら、慎重に推論して阿彦の乱の結末を概観しよう。
大若子命の大軍が附近一帯を制圧し、堂々たる布陣を敷いて露営する間にも、、岩瀬浜基地の戦況が続々と明細に報告されて来た。それによると味方の船舶群は完全に壊滅され、基地に備蓄された越冬用の食糧や資材も、多数の人質と共に敵の手に奪われてしまったらしい。しかし敵軍は少数弱体で、美麻奈彦軍によって包囲され、海浜の狭い地域に小さくまとまって立籠もって居るに過ぎない。美麻奈彦の留守部隊の強大な兵力は、潜入した敵を封鎖すると共に、辰城の周辺や呉羽山一帯を制圧し、更に其処から大若子命軍の宿営地迄の通路の安全も確保されて居る事が報告された。何時に変らぬ美麻奈彦の正確な計算に基づく慎重な配慮によって、一応最悪の事態は避け得た事を知って、大若子命も部将達も、彼が後方警備の為に大兵を残留させた英断に改めて感服した。 全軍を救った美麻奈彦の発言力は今や絶大である。彼は危険な阿彦本城の総攻撃を中止して富山地区迄後退し、改めて前後策を講ずべきであると進言した。愚かにも後方守備を怠った大若子命は、返す言葉も無く、美麻奈彦の先導に従って無事に呉羽地区に帰還する事が出来た。
基地に落着いた大若子命は、今も尚、強大な軍事力を保持し、此の地区の所々に分散備蓄されていた物資も無事確保出来たので、充分に阿彦の攻撃に対抗出来る能力があった。美麻奈彦は人質を取られた部将達の不安も次第に増大した弱身もあるので、皇軍が優勢な態勢を維持して居る間に、出来る限り有利な条件で講和する様に提案した。補給を絶たれた状態では、長期の抗戦は不可能であり、それにも増して大和への帰還が遅れると、高志国での皇軍敗北の情報が大和地方に漏れて、朝廷から厳しく処罰される危険が多分にある。更に人質を取られている部将や郷將達も揃って彼の提案を支持したので、終に大若子命も和平交渉を開始する決心をした。美麻奈彦の申出に応じて交渉の役を担った阿彦方の代表は大谷狗であった。彼は美麻奈彦を高く評価し、彼の誠実な人格に就いても信頼して居たし、阿彦の最高部将の一人として役目を担当する資格も充分である。
両軍の停戦に続いて、先ず第一に人質の解放条件が審議された。潜入軍に拿捕された大若子命の人質の員数は多かったが、鄭鶴・徐章を含めた狼兵達の数の方が遙かに多数であり、彼等自体が袋の鼠で、容易に殲滅され得る状態であったから、皇軍の家族を無事に引き渡す代わりに、彼等が岩瀬浜に引続いて安全に定住する事が許可された。
伝承に拠れば大若子命は阿彦軍を討ち果たした後で、大谷狗の説明に感動して鄭鶴・徐章を神に迄昇格させ、富山市草島の北方で、西岩瀬東方の海浜の近くに神社を建立して、恭(ウヤウヤ)しく彼等の霊を安置して居る。「肯構泉達録」では「鄭鶴・徐章阿彦の恩を荷ひ去るに忍びず、今阿彦を援けて死せり、と語りければ、命聞き給ひ、二人の忠貞にして死せるに感じ、屍を水口に葬り神とすべしと宣へば、二人の尸(カバネ)を求め、水口に祠を造り神とし祭りけるとなり」とある。何処の戦場でも敵対する者達は容赦なく討ち滅ぼした天皇方が、今度に限って敵将を神と迄祭り上げて優遇したとは考えられない。彼等は日本国に近付いただけでも打ち殺さるべき外国人であり、副将の地位にあって阿彦の重要な参謀役を果たしたのだから、彼等が阿彦に忠節を尽くしたのは当然で、感服する程の事では無い。更に此の神社の境内には唐草だけが生えて、日本在来の草が生えなかったとする不可思議な伝承が付け加えられて居る。これは支那の王昭君が匈奴に嫁して死んだ時、漢土の土を持って来て葬ったので、匈奴の白草でなく漢土の青草だけが生じたとされる異国の故事に習った後人の模作であろう。実際は彼等が集団的に永く此の地に定住して、嘗て渤海国から初めて我国に持参したネギ等の野菜類を栽培する生活様式を続けた事実を反映するものであろう。従って彼等が協定によって一定の土地と定住権が与えられて家族や縁者が集団して安全に住み付いたと考えれば、伝承の不合理を充分に解消する事が出来る。
国王阿彦の処遇は講和交渉最大の難関である。大若子命としては、どうしても阿彦を討ち果たし高志国を平定した事にしなくては、大和朝に凱旋するわけには行かない。此の事情を熟知する知恵者、美麻奈彦と大谷狗は、阿彦が殺された事にして彼等一族を父祖伝来の地、新川郡布勢へ移動させ、此処に定住して居た阿彦一族の上条・中条・下条の領地に接して、更に若干の領土を追加分与して阿彦に領有させ、今後大和朝の下風に立って服従する様に計らった。同時に阿彦の本拠岩峅城は破壊し、従属する多数の狼兵達はすべて解散されて彼等の故郷に退去させられた。之によって大若子命は名を取り阿彦は実を取った事になる。阿彦がこれ程大幅に譲歩したのは、大和朝の現在の隆盛を熟知して居り、遠い将来を考えるならば、高志国の独立は不可能で、やがては大和朝に征服されるに相違無いとする深い考察があったからであろう。 阿彦が大陸文化に心酔して居たと云っても、尚、古来の神道を自分の宗教として守って居り、天皇を尊奉するに大して抵抗を覚えない。阿彦が父を神として岩峅の南山に建てヽ越の一の宮と呼んだ大社も協定によって取り壊されたけれども、一方で大若子命は、阿彦の先祖東条彦を阿彦一族が東条照荒神と称して尊崇し、之を神として祭る新川郡布勢山中(布勢川流域の山地)にある神社に対しては、返って此の神の神階を昇格させ、同時にその高い階位にふさわしい社有地が新に与えられた事に満足して、異議をとなえなかった。此処には阿彦に近い縁者の上条・中条・下条の三家があって代々支配して居たが、改めて彼等を布勢の地に封ずると定めて彼等の継続支配を許し、上条は東条照荒神社の神職として永く神に仕え、中条・下条は族長として各々一郷を支配する事になった。之等の処置は椎摺彦の献言によって遂行されたと伝えられて居る。
阿彦が建立した越の一の宮も無造作に廃棄されたわけでは無い。阿彦の奉信したのは少なくとも同根の神道であったから、此の御神体も疎略に取扱うわけには行かない。そこで神を水口に移動して小さな祠を新設し、之を祭らせたと伝えられて居る。水口は鄭鶴・徐章等が復帰して定住する事になった富山市草島であるから、阿彦と帰化人達の其後の交流をも認めた寛大な措置であろう。
狼兵達の統率者の一人であった強狗良は、大谷狗と異なって天孫族との和平には反対で、岩峅や其他の城塞が破壊され或は譲渡される多忙な混雑に紛れて何処かに逃亡してしまった。支那夜叉も亦同意見で、彼と一緒に行方が知れなくなった。彼等は二人共阿彦の重要な部将だったから、狼兵等の若干の兵力を持って居り、後々迄天孫族に敵対するのは明白である。斯かる不穏分子を放置しては講和条約に反し、折角の和平が破れかねない。そこで大谷狗は配下の狼兵達に命じて彼等の行方を探索させた。狼兵達に掛っては高志国の何処に隠れようと直ちに見付けられてしまう。大谷狗から両者が称裏谷(ネリダニ)(宇奈月町浦山)に隠れて居るとの報告を受けた大若子命は、直ちに討伐の為に甲良彦と佐留太舅を差し向けた。支那夜叉事件以来佐留太舅を心良く思わない甲良彦であったから、此の尊大に振る舞う男と同行するのは頗る不満であったが、称裏谷は山地の奥深くにあって、郷士達にとっても未知の地帯であり、佐留太舅以外に其処の地理に詳しい者が居ない。かと云って敵方と共通する狼兵に案内させては、前もって内通され、取り逃がす心配がある。そこで敵方の豪將強狗良や支那夜叉に打ち勝つ事の出来る最強の武人として自分が選ばれた事に免じて、渋々乍ら内命を受諾した。佐留太舅は不機嫌な甲良彦の態度も意に介さない。然し自分の神通力の源泉たる男根を破損して使用不能にした支那夜叉を逆恨みしていたので、抜群に武力に勝れた甲良彦が彼女を打ち殺してくれる事を期待して、喜んで道案内を引き受けたのである。斯くして彼等は、山野の地理に精通した佐留太舅の誘導によって、敵に気付かれる事も無く、称裏谷の隠れ洞窟を見付け出した。此処にはどれ程の敵勢が潜んで居るか分からないので、武勇に自信が無く入口で躊躇する佐留太舅を後に残し、甲良彦は大胆に一人で中へ入って行った。此の状況を「肯構泉達録」では恰も見て居たかの様に詳しく記載している。
「厳(イワオ)の洞を探し求めけるに、賊四五人在りけるを斬り殺し、更に強狗良を求むるに、洞の中暗ければ刀にてみだりに左右上下を突きけるに、強狗良の背に突き当てければ、洞の上より堕ちけるを引き出し、斬ってぞ捨てたりけり、支那夜叉、所在の知れざれども、渠(カレ)は女なりとて急ぎ命の陣に帰り、此のよしを告げければ、命も喜び給い、諸將も命の苦心今日に解けたるを賀し奉る」
豪勇の士で同時に忍法の達人だった強狗良が、斯くも簡単に打ち取られたとは解し難い。洞窟の暗中に潜んで居た強狗良は、明るい外界から急に侵入した甲良彦と異なって、瞳孔が拡大して暗視順応して居り、更に忍者として闇の中でも物が見える訓練もしている筈であるから、暗くて眼が見えない甲良彦よりも余程優位にある。しかし忍法では殺されたと敵に思わせて逃げ去るのが最高の術であるから、身代わりの影武者を敵に殺させて逃亡したに相違無い。死んだとなれば其後は探索される心配が無く、逃げ隠れしないで自由に余生を送る事が出来る。天皇方と共存する意志が無く、阿彦とも絶縁して、狼兵達と共に自由に山野を駆巡りたい強狗良にとって、確かに之は最適の手段だった。支那夜叉は女性なので適当な身代わりが残せなかったのであろう。甲良彦も佐留太舅も強狗良と面識が無いから、彼と影武者を正確に識別する事が出来ない。武勇一徹で単純な甲良彦は、一途に強狗良を退治したと信じ、支那夜叉については出来れば彼女を無事に逃がしたい気持ちの方が強かった。佐留太舅は今尚危険の多い狼兵の出没する此の場所から、出来る限り早く立ち去りたかったので、敵の死体を其処に遺棄したまヽ、早々に大若子命の本陣に立帰ったのである。強狗良と支那夜叉は縁が深い。嘗て佐留太舅に襲われた際に彼女を助けたのは彼であるし、息子の支那太郎の亡き今では、全く自由で身軽であるから、喜んで彼と一緒に逃亡して余生を送り、狼兵達の仲間となって生活する気になったのであろう。
天孫族による高志国再編成は双方の協力によって急速に整備されつヽあったが、豪族達の支配地を吾物顔に荒し回る強狗良・支那夜叉に属する狼兵達の存在は、大若子命を大いに悩ませた。斯くて大若子命は狼兵の最高支配者であった大谷狗に、之等の不届きな狼兵達を制圧する様に懇請した。大谷狗は勿論強狗良等の生存しているのを知って居たので、快く大命を受諾して彼等の頭領である強狗良の所へ行き、此の様な混乱が継続されると、狼兵狩が行はれ、当然強狗良や支那夜叉の生存が露見されて、再び追跡され、狼兵共々安楽な余生を送る事が不可能になる事情を説明した。斯くて強狗良は道理に適った説得に応じ、治安の尊重を誓ったので、程なく狼兵達の暴行は見られなくなり、高志国全体に待望の平和が蘇って来た。
此の様に今次終戦処理に於ける大谷狗の功績は非常に大きい。然し、彼は一切の褒賞を辞退して、其後も代々、大野に住み付き、其処で気侭に洞窟生活を楽しんだと云う。又、彼の子孫に大谷平と云う者があり大富豪になったので、穴居を止め、大森と言う所に家を建てヽ住み、自力で一寺を建立した程に繁栄したが、盛者必衰の諺通り、或夜、盗賊に襲はれて刺殺され、財宝も奪はれて次第に衰微したと伝えられて居る。
今次合戦で或時は阿彦軍を破り、或時は大若子命軍を救出し、最後の和平交渉でも大若子命の代表として敵との交渉を引受けて成功させ、皇軍の名誉を保たせる事が出来た美麻奈彦の功績は抜群である。彼は郷土の豪將達にも大若子命にも高く評価され信頼されていたので、後程、大若子命の推薦によって、今迄の地方長官椎摺彦の解任の後を受けて高志の国造に任命されて居る。国造は当時の大和朝から正式に任命された地方長官の役名である。彼の地方長官就任は、阿彦方の将兵も天朝方の将兵も共に満足させた最適な人事だったので、其後も高志国に不満分子が現れず、大和政権の支配下で永く平和を享受する事が出来たのである。
之より遙かに後代になって、美麻奈彦の孫で美見比古と云う人の更に玄孫に当たる康守が射水郡草岡に住んで中流程度の生活をして居た。彼の曽孫、草岡康成は幼少から才知に勝れて居たが、十八才の時、遠祖美麻奈彦から伝えられた算法の書や其他一切を携えて京都に行き、時の算学博士、善為長に師事し、持参の伝書をすべて提出した。之は後冷泉院の朝、治歴二年で、阿彦の乱から約一千年近く経過している。研学の功あって寛治四年博士となり、翌年四十四才の時、朝議太夫に列せられ、善為康と姓名を変更したと伝えられて居る。
垂仁天皇八十四年の夏六月初めの頃、大若子命は赫々たる武勲と堂々たる陣容を整えて陸路から無事帝都に帰還した。遠征軍出発以来五十三年を経過している事になり、これでは大若子命は已に百才近く、当時の平均寿命から考えて来援軍の兵士達も殆ど全部が老衰死している筈で、全く信ずるに足りない。今次遠征に先立って遂行された大彦命による高志国討伐は、僅かに半年で高志全域を平定して大和に帰還し、崇神十年に行はれた四道将軍による大遠征も亦、半年後には復命して居る。最も長期間敵地に留まったとされる景行十二年(紀元八十二年)の熊襲親征でも、一年間で平定を終わり、其後六年間筑紫地区に御滞在なされたに過ぎない。記載された大若子命の長期に亘る滞在は全く例の無い話で、恐らく二・三年の滞在が適当な期間と思はれる。丁度此の頃は、正史でも垂仁四十年から八十六年迄の四十六年間は史実の記載の無い空白の時代で、日本紀元を世界史に整合させながら、古い時期に見せ掛ける為に無理に引き延ばされた年代の一部らしく、慣用されている日本歴史の年代から削除するのが正当であろう。大若子命も亦、高志国平定後の長期間に北陸地方で行った業績が何一つ示されていないから、此の年月も当然削除すべきである。
何時の時代にも派遣軍の戦功の評価は、帰還時に主人や出迎えの人々に奉呈される土産物の軽重や多少によって決定される事が多い。大若子命が朝廷や公郷達や同輩達に贈った捧げ物は極めて多量で且つ貴重・珍貴な品々であった。彼には阿彦の居城や神殿から奪取した多数の宝物が有り、帰還に際して郷將達から贈られた多量の珍宝も一緒に持ち帰ったので、大和朝への贈り物には事欠かない。大陸産の貴重な美術・工芸品、金銀を素材として加工した高価な飾り物の数々、鋭利な鋼鉄製の太刀や堅固な防具類、強力な石弓等、珍しい武器も主立った人々に贈られた他に、高志の海で特産の真珠や、姫川産の翡翠製装身具、美麗な絹織物の数々が下級の女官に至る迄広く贈られたのだった。うず高く山積された宝の山を見せられては、大若子命軍の大勝利は最早や疑うべくも無い。何処とも知れずかすかに漏れて来た大若子命大敗の風聞は一挙に吹き飛ばされて、大若子命の快挙と武勲を賞賛する声が帝都の朝野に満ちあふれた。凱旋の将士には天皇から隈無く恩賞が与えられ、朝廷の貯蔵庫を空にする程に盛大な酒宴が行はれた。斯くて大若子命は伊勢神宮の神主としての地位を不動にし、彼が高志国に残して来た戦後処理の施策も悉く承認され、又、彼が推薦した美麻奈彦を国造に任命する件も異議なく承認されたのであった。
世事に通じ処世術に勝れた武将である事も、名将とされる為には大切な条件である。恐らく彼は此の事を良く理解した世渡りの達人だったのだろう。彼の大勝利が確立され、其後も永く語り伝えられる間に、高志の地方伝承も影響されて、多くの矛盾を残したまヽ、阿彦が成敗された様に変貌されてしまったのであろう。