9:  阿彦軍の防衛戦

  待望の枯山城攻略成功の報に喜んだ大若子命は大急ぎで凱旋復帰した椎摺彦の大支隊を本隊と合併し、直ちに阿彦討伐の軍を発進する決心を固めた。姉倉媛伝授の八本の白旗を八將に配布して、富山方面から南下し焼山(大沢野町八木山)に向かって出発した。此の時の各隊の配置に就いて「肯構泉達録」では次の様に詳しく伝えて居るが、只、棒読みしただけでは混乱するので、理解し易い様に一応整理配列してそのまヽ紹介する。
  「神ノ告ニ随ヒ八將ヲ定メ給フニ、先ヅ
  東ノ一方ヲ陽陣ノ一番トシ、一旗ヲ渡シテ猿谷佐留太舅ヲ司ト仕給フ、   
 南ヲ二ノ陽陣トシ一旗ヲ渡シ加夫刀甲良彦舅ヲ將トシ、         
 西ハ陰陣ノ一番トシ一旗ヲ渡シ速川美麻奈彦ヲ掌トシ、         
 陰陣ノ二ハ北ト定メ大若子命自ラ一旗ヲ司リ備リ給フ、         
 陽ノ左、一ニハ国勝沢古舅、
     右ノ一ニハ釜生(カマナリ)富貴舅、
     左ノ二ニハ一ヲ將シ、玉生玉堆(タマキ)老翁戌亥ニ一陣一旗司シ、
    潔石高住舅辰巳方ニ一陣一旗ヲ司シ、
  幡生太路根老翁、後ベノ一陣ニハ白和幣(シロニギテ)是ヲ司シ、
  加志皮良近藤ヲ左トシ、
  右ニハ大若子命時ニ加ハリ、時ニ退キ玉ヘル也」
   とある。此処に云う白和幣とは木綿の布を木等に結び付けたもので、八構布の白旗と同じ役目を果たして居るが、最後尾に配されて全軍の要の標識とされているのは、八構布の神旗より伝統の白和幣を尊重して、それより上位に置いた為であろうか。勿論此の陣形は敵の前進基地焼山の前面に到着してからの布陣であるが、之等の目立った九本の白幡は、皇軍方の慣用する団隊戦を指揮するのに好都合な点で無意味では無い。戦場の地形から見ると大若子命軍は北から進軍して南方の焼山に向かって攻撃する事になるから、此の配置で敵の矢面に立つのは郷土軍ばかりで、中でも最強とされる甲良彦軍が単独で最前線に配されて居る。そうして大若子命の来援部隊は安全な後方に陣取って居る。然し今回の合戦は大若子命の指揮下にあるから、郷土出身の部将達も否応なく、慎重な足取りで敵陣に向かって前進して行った。近藤の舟勢迄も駆り出されて後尾左翼に従ったのは、今次進攻作戦に附随する熊野川や常願寺川の渡河に際して、船兵の協力が是非とも必要だったからに相違無い。狼兵に強い美麻奈彦を敵の根拠地岩峅に面する西側に配したのは、狼兵の出没する森林や河川に近く位置して、陸戦に弱い近藤勢を不意の敵襲から援護させる為であろう。しかし今度の作戦に美麻奈彦が引率した兵士は意外に少数であったが、辞を低くして味方になってもらった事情もあり、前回の枯山城攻撃の第一功労者であったから、大若子命も不満を漏らすわけには行かなかった。更に阿彦軍が如何程精強であろうとも、自軍の堂々たる大軍団の前には殆ど脅威となる存在には思えないので、之以上に味方の兵数を増加する必要が無かったのである。
焼山の前衛防禦陣で皇軍を迎え撃つ阿彦方の大将は支那太郎である。彼は先に椎摺彦等を中地山城に攻撃して、作戦の拙さからみすみす彼等を取り逃がした不名誉を回復しようと、進んで第一線への配備を願い出たのである。支那太郎には良く訓練され装備も調った正規軍の一部が与えられた他に、肉親を討たれて天孫族に深い怨恨を懐く血気盛んな若い狼兵達の一団が従軍を希望し、阿彦の許可を得る事が出来た。早々に焼山に前進して居た支那太郎軍によって、已に焼山の山麓から中腹に掛けて広範囲に亘って森林を利用した各種の罠が仕掛けられて居たが、此の戦闘では之等の防禦施設にたよらず、白兵戦による専ら直接的な攻撃で敵を打ち倒すつもりだった。 白旗をなびかせながら重厚な布陣で来襲する敵軍は、高所から観察する支那太郎に対しても指揮する敵部将の識別を容易にさせたので、右手にある勇猛な甲良彦軍や、苦手の美麻那彦軍を避けながら、左手の大若子命の本隊を攻撃しようと決断した。支那太郎は進攻軍の前線が焼山の山麓まで慎重に前進した頃を見計らい、不意に焼山から駆け出し、最も弱兵と思はれる佐留太舅軍に向かって襲い掛かった。此の佐留太舅こそ彼の母、支那夜叉を辱かしめた許し難い敵でもあったので、支那太郎の奮戦は全く凄まじく、彼の精兵達が大将を中心にがっちりと陣を組んで戦場を駆け回る様は、一団のつむじ風の様であった。急を見て馳せ来たり、小勢と侮って敢えて之に立ち向かった大和の豪者達も一瞬の間にその渦に巻き込まれ或は弾き飛ばされて命を失った。「肯構泉達録」では此の戦闘で大若子命が「常蛇の援」なる戦法を用いて戦勝したと記して居る。然し此の戦法は「常山の蛇は頭を打てば尾至り、尾を打てば頭至り、中を打てば尾頭共に至る、首尾合い助けて敵の付け入る隙の無い戦法」として知られた支那式戦術で、神道系の戦術を採る大若子命の関知する所では無いから、古人の勝手な伝承への挿入であろう。支那太郎の本来の使命は大若子命軍の撃破であり、貴重な時間を佐留太舅如きに手間取って大軍に包囲されては適わないから、程なく鉾先を後陣の大若子命の軍勢に変えて、再び鬼神の如く突進して行った。之によって已に散々に打ち破られたけれども、漸く無事に生き残る事が出来た佐留太舅は幸運だったと云はねばならない。支那太郎の死力を尽くした奮戦にも拘わらず、大若子命を囲む重厚な軍勢は頑強で、次々に新手の兵士達によって反撃されるので、支那太郎軍は殆ど体力を消耗して、これ以上の猪突は不可能になった。兵をまとめて後退する支那太郎を包囲攻撃する絶好の位置を占めて居る甲良彦も美麻奈彦も担当する正面を警戒するだけで、帰路の駄賃として狼兵達によって、敗残の佐留太舅の兵士達が更に打ち倒されるのを助けようとしなかった。甲良彦は支那夜叉事件で佐留太に反感を抱き、美麻奈彦は支那太郎の小勢では大若子命軍を破れないと夙に読切って居たので、窮鼠となった支那太郎軍によって自分の大切な兵士を失う危険を避けたからである。態勢を立て直して敵の逃げ退いた焼山を攻め登る大若子命軍は、予想通り森林に仕掛けられた防衛工作物に阻まれてはかばかしくは前進出来ない。之等の障害物を山林諸共一気に除去する手段として、丁度具合良く追風を受けて居たので、大若子命は参謀達の意見に従い、正面する敵の潜伏する山林に放火する様に命じた。山火事は麓から山頂に向かって燃え広がる性質がある上に、手頃な追風を受けて予想通り順調に山林と厄介な罠を焼き払い、敵軍を山頂に追い上げて行った。風の吹く方向は寒暖の変化によって変更される。殊に地形の入り組んだ山峡地帯では僅少な刺激に反応して急に風向きが変わる事が多い。山の片側を盛大に焼き進んだ焔の熱が周辺上空一帯の気温を上昇した為に風の通路が変更され、突然逆風となって今度は大若子命軍の方に向かって火の粉を降りかけて来た。
 思い掛けない災難に仰天した大若子命は、急遽山麓に後退したが、激しい突風が山麓に続く原野迄火の粉を吹き飛ばし、あちこちに新たに火の手が上がり、程なく四囲を火勢に包囲されてしまった。自ら招いて窮地に堕ちた大若子命は、出発に際し天皇より賜った「標の剣」の神通力によって無事に火中から脱出する事が出来たとされて居るが、日本武尊が駿河遠征の際に東夷による火災を脱した有名な説話と全く同巧で、著者の欺瞞が見え見えである。「喚起泉達録」では此の状況を次の様に記述して居る。
  「四將ハ命ト共ニ山ニ添ヒ野ノ高キニ至リ暫ク精神ヲ息ムル所ニ、思ハザルニ四方一度ニ火発ツテ山林野草天ヲ焦シテ燃エ上リ、黒煙十方ニ充満、其火ノ急ナル事四將モ防グニ術ナク既ニ命ノ傍近ク燃エ来ル、賊等続テ込カヘシ事ノ体危ク見エケル時、命ノ帯シ玉フ標剣自ラ抽ケテ傍ナル草ヲ薙払フ、是故ニ命ノ側ニ火至ラズ危ヲ出玉ヘリ」
 そうして此の事件の為に此の場所が焼山と云はれる様になり、又、標剣は草薙の剣と呼ぶ様になったと述べて居る。更に此の年代が日本武尊の説話よりも約四十年以前である点を力説して、阿彦伝承の優先的採用を独善的に主張しているが、詳しく考察されて来た日本武尊の草薙伝説を否定するには説得力に乏しく、到底史家を納得させる事は出来ないだろう。此の様な無謀で傲慢な態度が、返って阿彦伝説全体の信頼を失はせ、正史から阿彦伝承が除外される原因ともなっただろう。しかし此の地方伝承は今尚根強く栴檀野方面等で語り継がれている実状から見ても、物語全体を虚構として捨て去るのも行き過ぎである。 兎に角、大若子命と彼の軍勢は此の猛火を脱出し、美麻奈彦の誘導に従ひ、近藤軍の助力を得て東方に移動し熊野川を渡河した。渡河に手間取る大部隊は攻撃するのに絶好の目標である。逸早く焼山を退き熊野川の東岸に先回りして居た支那太郎は、戦法の原則通りに渡河中の大若子命の大軍に襲い掛かった。然し彼を迎え打ったのは一般の野武士では無く水に強い近藤の船兵だったので、勇猛な支那太郎軍も水上では劣勢に陥らざるを得なかった。石走天狗や狼兵達も良く戦ったが、続々と渡河を終えた大若子命の大軍に包囲され、石走天狗は美麻那彦の矢に倒され、支那太郎は近藤勢に打ち取られたと伝えられて居る。「喚起泉達録」が説く所によれば、此の時石走天狗を打倒した武器として、漆の木を中心にして竹を張り合わせて作った弓に、矢羽根に大烏の羽根を用い、矢尻にヂンドウの根を刺した矢を用いたとされている。ヂンドウとは何か不明であるが、トリカブトの様な有毒植物であろうか。美麻奈彦の放った強弓の矢は石走天狗の胸を射通し、彼を後の岩に射繋いだが、此の矢は後に不同と云う蔓草に化し、此の蔓草の根が救荒用食品として現在も食用にされていると述べて居て、神話にあり勝ちな全く奇々怪々な現象である。此の蔓草はササゲの葉に似た三個の小葉からなる羽状複葉を持ち、食用となる根部は球状で大小不同のものが数個群生するとあるが、此の様な植物は現在の富山県で見当らないし、植物図鑑にも記載されて居ない。
 大若子命は阿彦の前衛隊の支那太郎軍を撃破し、壊滅的打撃を与えたが、自軍も亦可成りの損害を蒙って居る。直ちに阿彦の本拠岩峅に出撃するには新に常願寺川の激流を渡河する必要があり、強力な阿彦の本隊が前面に展開しているに相違無いので、一応上滝地区の平地に軍隊を集結して態勢を整えた。朝からの戦闘で兵士達も疲労している上に、もう日没も近いので時間的にもこれ以上の前進は不可能であった。
 然し此の時刻よりずっと以前、大若子命が猛火を脱出するのに懸命であった頃、彼の根拠地岩瀬浜方面で驚くべき事態が生じていたのであった。阿彦が支那太郎に命じて焼山陣地から無謀にも大若子命を強襲させたのは、敵の全軍を此の戦闘に吸引し、敏捷な対応を阻止する為の高等な戦略手段である。阿彦の意図は強大な敵海上勢力の撃滅である。敵軍は幾度陸戦に敗退しても制海権を持つ限り、容易に戦備を補修し、新に援軍を得て再び進攻して来るだろう。阿彦は現有勢力を傾ければ大若子命軍を岩瀬浜に打ち破る自信があったにも拘わらず、消極的な防禦態勢を採ったのは斯かる陰謀があったからである。 大若子命が小竹野で戦備を急いで居た頃、已に岩瀬浜基地周辺の村落には、嘗て此処に定住した経験があって地理に精通した鄭鶴・徐章を將とし、軍略に勝れた鬚荊坊が参謀となって、選び抜かれた数百人の狼兵達と共に、阿彦の秘命を受け、農民や漁民に化けて其処此処に点々と潜み隠れて居たのである。大若子命が全軍を挙げて阿彦討伐に出発し、長駆焼山辺に進攻した頃を見計らって、突如、鄭鶴・徐章等は殆ど無防備に取り残された岩瀬浜基地の敵船舶群に襲い掛かった。狼兵達は思い思いの民服を着けたまヽ、船を焼く為の道具等、雑多な武器を携えて、林の影や草むらの間から続々と姿を現した。不意を突かれた留守番の船兵や椎摺彦等の妻子達は、之等の見慣れぬ服装をした敵に怪しい妖気を感じて一層狼狽した。此の時の様子を伝承では「鬚荊坊が岡の凹みから現れて何事か低くつぶやきながら鞭を伸ばして差し招くと、その凹みから掻き出される様に、大目玉の者、耳の長い者、口の裂けた者等、次々に無数の異類異形の化物達が群がり出て来た」と伝えて鬚荊坊の妖術による妖怪変化の出現を伝えて居る。
 思慮深い軍師、鬚荊坊の指示に従って、已に潜伏中に敵船の種類や数・配置、更に夫等の係留状態に就いても詳しく探索され、対策が練られて居たので、狼兵達の機敏な行動によって、砂浜に引き上げられて居た多数の軍船が一瞬の間に焼き払われ、河口近くに舫されて居た船も、殆ど大部分が底を破られたり火を掛けられたりして沈められた。危急に驚いて沖合に逃げ得た船は極めて少数に過ぎず、しかも夫等は機敏に動かし得る小舟に限られて居た。鬚荊坊が敵船の始末に忙殺されている間に、鄭鶴・徐章の卒えた狼兵達は、逃げ惑う椎摺彦方の老幼や婦女達を全員捕虜にしてしまった。以前、帰化人達が奇しくも此の場所で天孫族軍に攻撃され、殆ど全員が無差別に虐殺された残虐行為に較べれば、今回の行動は極めて人道的で、危害を受けないで捕らえられた人々は非常に幸運だったと云はねばならない。
 岩瀬浜方面に起こった時ならぬ騒動は、船舶や部落を焼き払う兵火と黒煙によって、程遠からぬ新庄にある美麻奈彦の辰城の守備隊によって直ちに敵襲と察知された。留守城を守って居た副将は直ちに全兵力を引き連れて救援の為に岩瀬浜に急いだ。此の軍勢は美麻奈彦が自ら引率した阿彦討伐軍よりも兵数の多い強力な軍団である。阿彦の立場に立って考える用心深い美麻奈彦は、裸になった船団への阿彦の攻撃を予測していたので、其の対策として保有戦力の大半を辰城に残し、副将に緊急時の対応法を指示説明して置いたのであった。しかし阿彦陣営の最高知識人であった鬚荊坊の高級戦術は美麻奈彦の予想以上の戦果を挙げ、残念乍ら多数の人質を敵に与えてしまったのである。之等の貴重な人質の為に、来援の美麻奈彦軍も、此処では兵数でも明らかに劣勢な阿彦方の潜入軍を攻撃すると、人質の生命をすべて失う事になるので、只、包囲陣を敷いたまヽ対峙するだけであった。鄭鶴・徐章軍の方も、多数の面倒な人質を抱えたまヽ、精強な美麻奈彦軍に打ち勝つ自信が無く、厳重な防備陣を敷き乍ら海岸地帯に留まって、阿彦からの直接の指示を待って対峙し続けるしか無かった。
 海浜地区の不満な戦況が詳しく美真奈彦に報告されたのは、大若子命軍が上滝地区に設営の準備を整えて居る頃であった。此の突発事件は直ちに全軍に伝えられ、家族を捕らえられた椎摺彦等の部将達に大衝撃を与え、彼等の阿彦に対する戦意を著しく失はしめた。しかし、進退の自由を可成り失った状況とは云え、美麻奈彦の配慮によって後方の心配には一応対処し得たのに安堵し、大若子命の連合軍は緒戦に勝利した満足感もあって、計画通り岩峅の阿彦軍の討伐を続行するつもりで、此処での宿営を決心した。

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