3 :  嘉礼谷の合戦

  高志の山々には、先年大彦命の軍勢に打ち破られて主人や肉親を討たれ、或いは土地を奪われた土着人の将士が少なからず潜み隠れて居た。彼等は天孫族に降伏したり帰順したりして保身を計った多くの日和見的な高志人達と異なって、天孫族をはっきり敵とする一徹な武者共である。阿彦が強大な軍事力を擁しつヽ岩峅の険に反天皇の旗色を明かにするや、彼等は口から耳に聞き伝えて、時節到来とばかりに欣喜して、岩峅とは遠く隔たった高志の隅々からさへもやって来て、阿彦の傘下に加わった。
 之等の積極的な武者達が沢山集まるにつれて、必然、阿彦王国の勢力は立山附近の山間部からはみ出して、次第に平野部の天孫族勢力圏が蚕食され始めた。軍隊としての集団行動の訓練も受けて居ない烏合の衆であったが、彼等の強健な肉体、敏捷な行動、そうしてガムシャラな勇気の為に、個人対個人の闘争では天孫族系の武人の歯の立つ相手ではなかった。しかし斯かる未訓練の者達を正規の軍隊と一緒に行動させるわけには行かないので、阿彦は彼等だけの集団を編成して、彼等の最も得意とする山岳戦と遊撃戦に使用して居る。天孫族の方では彼等を狼犬と呼んで恐れて居たが、その軍事力についてはあまり高く評価して居なかったらしい。しかし狼犬達の主将であった大谷狗(オオタンク)・強狗良(ゴウクジラ)の二人は、学識も高い立派な人物で、阿彦の副将の地位さえ与えられて居た。強狗良は阿彦の下に岩峅に居て一部の狼犬の訓練に従事して居たが、大谷狗は大部分の狼犬達と共に遠く枯山に遠征して此処に城塞を築いた。此の枯山は肯構泉達録にも砺波郡浅野谷となっているが、故土田古香翁は現地の地勢や口伝から東砺波郡・婦負郡の郡境、嘉礼谷であるとされた。
  枯山城が出来上がると当然大谷狗が城主に任命され、更に副将として乱波袋、栃谷舅の二將が配された。此の枯山城は地理的な重要性から云っても城の大きさや守兵の数から見ても、岩峅に次ぐ第二の根拠地とするに充分なものであった。此の頃には枯山城と岩峅城の間には、20の堡障が夫々要地を選んで建設され、20人の部将が夫等を守備して両城の連絡を万全にし、此処に阿彦王国の形態が一応整備された。
  阿彦王国の発展はそのまゝ天皇系勢力の衰退である。先に手刀摺彦が計画した外郭防衛陣たる12城も、次々に攻め取られて行ったので、一度帰順した筈の高志人達も最早や手刀摺彦の命令に服さず、阿彦の勢力圏から遠く位置して、何等阿彦から脅威を受けない所でも、石動町の厚根城の様に天孫族の中心から遠く離れて居る城は、勝手に天孫族と絶縁して中立的態度を取るに至った。そうして今は椎摺彦・手刀摺彦の居城である卯辰山の中地山城の他に、美麻奈彦の守る辰城と甲良彦の守る辻城の2城が天孫族の勢力に数え得るだけとなった。しかも此の辰城と辻城が阿彦方に攻略されなかったのは、只その位置が天孫族の根拠地に最も近く、前者が富山・呉羽山方面から、後者が高岡・二上山方面からの援助があった為ばかりでは無い。
  辰城の城主、美麻奈彦は手刀摺彦に随身した高志の郷士であったが、彼の風貌について、「其尺一丈面白ク金眼紫筋勢気静カニ惺々トシテ言語爽ヤカナリ」と記されて居る。此のまゝでは全くお化けであるが、その文意からは、背が高く色白で、やせて静脈が浮きだし、幾分筋張った感じの男が想像される。彼の特長は武勇ではなくて非凡な学識である。天皇方の陣営で阿彦方の科学技術を理解し得たのは彼一人であったし、又同時に阿彦方の新兵器や新戦術に対策を講じ得たのも彼だけであった。彼の学識の深さは彼によって伝えられたと云う美麻奈算法なる数学によっても充分推察出来る。美麻奈算法は十百千万の位を2、3、4、5と置く簡易計算法で、現在の対数計算に相当する。
  辻城を守る甲良彦は加夫刀比古(カブトヒコ)の末孫として代々名誉ある土着の豪族である。天皇方に味方して居るが手刀摺彦や椎摺彦の下風に立って居るつもりはなかった。実際甲良彦は斯かる自信を持つだけの武力も経済力も持って居たので、他の部将達とは異なった特別の待遇を受けて居た。阿彦にとっても甲良彦は最強の敵である。甲良彦の辻城からわずかに2里の地点に堅固な枯山城の築城を命じたのも彼を牽制する意図に他ならなかった。武力を背景に甲良彦の随身を勧告した阿彦の計画は明らかに目算違いで、反って逆効果をもたらした。誇り高い甲良彦が成り上がり者に過ぎぬ阿彦の命令に服する筈もなく、それかと云って現実に阿彦の脅威が目前に迫って来て居るので、辻城の軍備を整えると共に、自分の方から積極的に天孫族陣営との共同防衛に尽力する様になった。辻城の軍備拡充は、当然、枯山城の軍備増強をうながした。枯山城に乱波岱・栃谷舅の二將が新しく配属されたのも斯かる事情があったからである。  阿彦方の武器や食料も、ぞくぞく枯山城に運びこまれたが、まだまだ甲良彦の攻撃に耐え切れそうもないので、遂に阿彦自身、前線の状況視察と工事監督の為に枯山城に出張して来た。
   これは天孫族にとって絶好の機会であった。岩峅の天険に、多数の智將、勇卒に守られて居る阿彦を撃つ事は絶望であるが、此の未完成とも云える城に僅かの近侍兵しか伴わずに乗り込んで来た阿彦は、周囲から天皇系の総力を集めて襲いかゝれば、之を討ち果たすのは、さして難事とも思えなかった。作戦の要点としては枯山城を孤立させて、岩峅からの救援を不能にする事である。枯山城の攻略は不意にしかも短時日の内に終結させねばならない。諜報によって阿彦が枯山城にある事を知った手刀摺彦は、極秘裏に甲良彦と協議して枯山城攻撃の準備をすゝめた。
  垂仁80年秋、木々の紅葉する頃、突如として椎摺彦、手刀摺彦は神通川東岸の兵力を極秘裏に呉羽山方面に集結し、次いで美麻奈彦軍を長沢方面に進出させ、機会を見て其処から彼に枯山城を攻撃させる事にし、自らは直ちに神通川西岸に沿って上流に進み、随所に阿彦方の保障を撃破しつゝ渡河点を確保し、舟艇はことごとく焼き払って、岩峅方面の阿彦軍を呉西の阿彦軍から分断した。同時に甲良彦は高岡、伏木方面より各々手兵を率いて馳せ参じた三人の部将と共に、自己の全兵力を挙げて枯山城攻撃を開始した。辻城を真っ直ぐに南下して枯山城に至る路は山又山の険路で、防禦の阿彦方に絶対有利である。細い山道では集団の偉力は発揮出来ない。其処を大谷狗の身軽で精悍な山武士達に襲われたら、無事に逃げる事さえ不可能であろう。そこで当然、戦術的見地から枯山城を西の側面から攻撃する事にし、中田方面から庄川の東岸を進み栴檀野に布陣した。
  阿彦の方でも敵の動静は常々注意して居たので、甲良彦の出撃状況は直ちに阿彦に報告された。敵が枯山城を側面から攻撃して来るとなれば、未だ完全には出来上がって居ない枯山城で敵を防ぐのは非常に危険である。当然、前衛陣地を構えて此の城の弱点を補強する必要があった。そこで阿彦は、坪野方面より進撃して来るかも知れない敵には、自然の要害たる嘉礼谷の険に拠り、城兵の主力を以て自ら之に当たる事とし、乱波岱、栃谷舅の二將に命じて間道の要衝たる浅ノ谷を守らせ、更に大谷狗を伏兵として主道、間道の何れにも作戦出来る要地たる天狗山にひそませた。斯くて嘉礼谷の合戦は、浅ノ谷、天狗山附近が最大の激戦地となった。これが後世になって枯山城の在所を浅野谷と誤伝する結果に導いたのであろう。又、天狗山は此の時大谷狗の大兵が隠れて居た為に、その様に呼ばれる様になったと伝えられて居る。
  甲良彦は阿彦が厳重に山柵を設けて待ち構えて居る敵の防衛正面たる坪野方面を避け、唯一の弱点たる浅ノ谷方面からの攻撃を決意するや、直ちに全軍一団となって和田川に沿い一気に浅ノ谷盆地迄進出した。しかし之から先は細い山道と急坂で、どうしても大部隊のまゝでは通れない。そこで前進区分の決定や隊形の変更の為に、しばらく部隊が停止した。突然、部隊の右側浅ノ谷の山頂で太鼓の音が聞こえ、崖の上から数個の岩石が落下して来た。あっと驚くその顔へ、続いて多数の素矢が唸りを立てゝ降りそゝいだ。此の場面の描写も「喚起泉達録」では相変らず針小棒大で、「山上俄ニ鼓ヲ打ツ事頻リナリ、其音天ニ響キ地ニ震イ忽チニ黒雲天ヲ覆フテ四面閃闇トナリ、鉄火山谷ニ散乱シ、雷ノ落ツル音石ヲ割リ山ヲ崩ス」とある。           
 甲良彦方にとっても、これは充分覚悟の上である。勇猛な甲良彦の兵士の一隊が、すぐバラバラと浅ノ谷の斜面に取り付いて、是をよじ登り始めた。これで右手の山地に敵勢のある事は分かったが、正面の山林は勿論、左側の山からも何時敵が襲撃して来るか分からないので、その対策にも一軍の指揮者たる者、軽々しくは動けない。甲良彦も従軍の三將も整然と地形を利用して軍を展開しつゝ阿彦方の出方を見守った。甲良彦軍の強さは、かねて定評があったが、これ程精悍な武士達であろうとは予想せぬ所であった。甲良彦軍の一部の兵力によって、兵数も多く地の利もある浅ノ谷の前線が、ジリジリと山頂に押し上げられ、しかも敵の本隊は鉄壁の布陣を敷いて枯山城に進撃し始めたのを見て、乱波岱は切歯した。此処にこのまゝ取り残されては枯山城の防戦に何の役にも立てず、敵の布陣さへ崩せないとあっては大谷狗の伏兵も無意味なものとなる。味方の選んだ地域で敵に戦はせてこそ作戦計画が順調に実行され、敵に打ち勝つ事が出来る。甲良彦軍に動揺を与えるのは近接戦以外にあり得ないと判断して、乱波岱は手持ちの全兵力をひっさげて浅ノ谷の斜面を駆け下った。自ら先頭に立って、頑強に抵抗する甲良彦の兵士達を切り伏せ突き倒して盆地の端に現はれた。隊形を整える暇も置かず、直ちに甲良彦の中軍に駆け向かった。両軍のどよめきが四囲の山々にこだましたが、それは乱波岱の自殺行為としか見えなかった。倒れ行く兵士は殆ど乱波岱方の者で、乱波岱自身も遂に甲良彦の鉾先に倒れてしまった。残余の乱波岱方の兵士が算を乱して再び浅ノ谷へ逃げ退く先方に、今度は栃谷舅の一隊が喚声を挙げながら甲良彦に向かって突進して来るのが見えた。
  甲良彦は敗走する乱波岱の残兵を見逃し、性懲りもなく現はれた敵の新手の勢に向かって、今度は甲良彦の方からも、どっと突撃して行った。難なく阿彦の一将を討ち取り、勢いに乗じた甲良彦の軍勢をまともに受けては、栃谷舅が如何に奮戦しても、立ち所に殲滅されてしまっただろう。しかし甲良彦軍の突撃は和田川の水流によって阻止されてしまった。和田川は十数米の川幅を持つ小川であるが、両岸は高い絶壁で、しかも川底は滑り易い岩石から成っている。敵前でこれを渡るのは非常に危険であるが、甲良彦軍の強さは此処でも遺憾なく発揮された。或者は蔓草に掴まって、或者は押し倒した岸辺の樹を梯子代りにして河底に下り、折から渇水時の水流をザブザブ渡り切って、再び対岸の絶壁をよじ登り始めた。勿論之等の荒武者達は対岸から狙い打ちする栃谷舅軍の矢によって可成りの損害を受けた。しかし甲良彦の方は兵数でも圧倒的に多かったので、渡河を援護する対岸からの弓勢に押されて、栃谷舅は絶好の狙撃目標を前に見ながら充分な効果を挙げる事が出来なかった。敵側の岸を登り切った甲良彦の勇士達は、其場に居合わす敵兵を手当り次第になぎ倒して暴れ狂ったので、栃谷舅の軍は其処此処で切り崩され、次第に浅ノ谷の山手に押し戻された。和田川の両岸が甲良彦軍に占領され、敵の妨害も無くなったので、甲良彦軍は続々渡河してその勢力は益々強大となり、栃谷舅の助かる道は今は只敗走以外に無い事は明白であった。  しかし此の時、戦機をつかんだ大谷狗が部下の狼兵凡そ千人を指揮して突如雲の如くに天狗山の麓から現はれ、三將の卒える甲良彦の援軍に襲い掛かった。主力であった甲良彦軍が戦列を離れた為に布陣に穴があいて居た事が原因して、戦列が到る所でたち割られ分断されてしまった。
  さうして之等の軍隊は集団的な戦闘能力を失い、戦闘は個人対個人の殺し合いとなり、敵味方の識別さえ困難な程の乱戦になった。個人戦ともなれば大谷狗の山武士達の精悍さは俄然生彩を帯びて来る。三將の兵が弱かったわけではないが、彼等は天孫族系の集団訓練に馴らされた軍隊であって、斯かる乱戦に対応する精悍さに欠けて居た。之が若し甲良彦の軍隊であったならば、之等の狼兵達も甲良彦の猛者達の一撃に会って退散するか、のたれ死にするかであったろうが、今見られるのは只狼兵達の縦横の活躍であった。
  甲良彦も大谷狗の軍勢を認めるとすぐに味方の危機を感じたので、直ちに栃谷舅への攻撃を中止して後退に掛かった。すると驚いた事には到底かなう筈の無い栃谷舅の軍勢が再び無謀な攻撃を加えて来た。攻撃の際に障碍となった和田川は、後退の際には更にそれ以上の難所となった。栃谷舅の附け目も勿論其処にあって、がむしゃらな突撃は甲良彦をすこしでも長く此の地に引き留めるのが目的であった。栃谷舅の軍には乱波岱の敗残兵も加はり引き続いて捨て身の攻撃を繰り返して来るので、甲良彦は防禦しながら和田川を渡る事は断念せざるを得なかった。栃谷舅軍を徹底的に打ち破る決心で再び攻撃に移ったが、今度は栃谷舅の柔軟な戦法の為に、かなりの時間を失ってしまった。甲良彦に胸板を貫かれる迄、栃谷舅としては自己の力を最大限に働かせたと云ってよい。自ら捨石となって甲良彦軍を引き留めて居た間に大谷狗の狼兵達は甲良彦方の三將の軍勢を完全に食い荒らしてしまった。
  甲良彦軍が荒れ狂う大谷狗の狼兵達を追い払って漸く三人の部将を救出する事は出来たものゝ、彼等の軍勢は已に無力化して殆ど使いものにならなかった。甲良の一翼たる三將の軍は大谷狗に破られたが三人の大将自身は尚健在であるのに反して、阿彦方は副将の乱波岱と栃谷舅を二人共討ち取られたのだから、此の緒戦の結果は殆ど互角と思はれる。しかし此の戦果の受け取り方は阿彦と甲良彦では非常に異なって居た。甲良彦は友軍の惨状を見て、此の合戦は失敗であったと思った。自分が打ち破った乱波岱や栃谷舅は此の枯山城でこそ副将に任ぜられて居たが、阿彦の部将の中では小者に過ぎない。阿彦軍の主力と城主大谷狗が尚健在であるから、甲良彦の独力で彼等と決戦するのは非常に危険である。元来、甲良彦は彼に深い仇怨があったわけではなく、天孫族の誘いに応じて今度の攻撃を計画したのだから、今、援軍の三將の軍が潰えたからには、更に自分の運命を賭して戦う程の事もあるまい。もう枯山城攻撃は止めにして一応辻城に帰り、椎摺彦等と新しい対策を協議するにしかずと考えた。他方、阿彦は序戦は自軍の勝利であると考えた。此の勝利は乱波岱・栃谷舅の壮烈な献身によって得られたものである。愛する二人の部下を殺した甲良彦を討ち取り、彼等の霊をなぐさめるこそ国王としての務めであると思った。此の様に部下を愛し且つ信頼して居たからこそ部下の人々も亦、阿彦の為には自分の生命をも喜んで棄てたのである。阿彦は手持ちの全兵力を挙げて急遽天狗山の戦線に進出し、更に迂回して浅ノ谷盆地より庄川流域の平地に出る為の隘路を制する山腹に陣を敷いた。
  甲良彦は負傷者の収容を待って三將の残兵を再編成し、自らは尻軍となって阿彦の追撃や大谷狗の奇襲を警戒しつゝ、ゆっくりと和田川に沿って浅ノ谷盆地を後退して行った。尤も甲良彦にとっては一刻も早く此の盆地を脱出したい所であったが、先発して居る三將の軍が多数の負傷者を伴って居るので敏速な行動が出来ず、従って後続する甲良彦の行動ものろのろしたものになったのである。やがて盆地の出口に差し掛った三將の軍は、山腹に待ち構えて居た阿彦の大軍から射掛けられる矢の嵐に会って一たまりもなる立ちすくみ、各々物陰に身をよせて動けなくなってしまった。直ちに甲良彦は背面の防備に一部の兵を残したまゝ、主力を以て前面の敵に立ち向かって行った。先ず盾を持った尖兵の一隊が嶮しい斜面をよじ登り始め、皮製や竹製の防具に身を固めた荒武者達がこれに続いた。そうして弓隊の者達は木立の影に散開して攻撃隊の為に的確な矢を打ち返した。
  阿彦の本隊が枯山城を放棄して退路を扼する為に出動して来たとは考えられないので、当面の敵を大谷狗の狼兵達と判断したのが甲良彦の重大な誤算であった。とは云え、枯山城の兵士達は阿彦の本陣たる岩峅城の兵士達と異なって装備も悪く集団訓練にも欠けて居たので、甲良彦の本格的な攻撃に会っては如何に地の利を占めて居ても苦戦は免れぬ所であった。勿論阿彦は之等の城兵や狼兵達の弱点も長所も良く知って居たので、只、力攻めに甲良彦軍を押しつぶそうとは考えなかった。しかし才能、機略共に非凡な国王阿彦に指揮された山武士達は最早単なる狼兵では無かった。更に彼等は国王の直接の命令に従って国王の面前で戦える喜びで一層熱心に立ち働いたのである。阿彦は甲良彦の軍勢が勇敢にしかも整然と攻撃して来るのを望見すると、直ちに伝令者を前線の射撃部隊に走らせて、次第に山頂の後方陣地に後退する様に命令し、敵兵を山の中腹へと誘い込んで行った。
  甲良彦軍の先鋒が中腹に達した頃には、次々に後続部隊も崖をよじ登って、攻撃隊は重厚な陣となり、その威容は山上の阿彦軍を簡単に打ち破りそうに見えた。しかしやがて山上で太鼓が乱打され、それを合図に多数の巨石、大木が物凄い地響きと共に転落して来た。夫等は灌木をなぎ倒し、土砂をはね飛ばしながら、甲良彦軍の真っ直中を通り抜け、更に崖下の小径の上を転々して谷間を流れる和田川の激流に水しぶきを上げた。此の奇襲は身をかわす暇のなかった盾を持った先鋒隊に可成りの死傷を出しただけで、後続の身軽な兵士達は機敏に移動して安全な物陰に身をひそめたので、殆ど実質的な損害を受けなかった。しかし之によって甲良彦軍の陣形はばらばらに分裂してしまった。そうして尚も強引に山頂へ攻撃を続けて行く甲良彦軍も、再度巨石を浴びせられるのを警戒して、分散したまゝ攻撃して行かざるを得なかった。その後、何程の距離も前進しないうちに、今度はもっと驚くべき事が起こった。阿彦の兵が投げ下した物が大音響を発して爆発し、木は裂け岩は壊れて周囲一帯が黒煙に覆われたのである。爆発したあとには所々枯草が燃え始め、黒煙が散ったあとに白煙が立ち上がった。爆発は引き続いて其処此処に起こったので、甲良彦の猛兵達も驚きの余り只うろうろと火と煙の間を探しつゝ麓の方へ逃げ帰るしかなかった。彼等には阿彦が妖術を以て雷を投げつけたとしか考えられなかったであろう。斯くて此の好機をとらえて阿彦軍の総攻撃が開始された。此の状を喚起泉達録には「勢ヲ勝ッテ追ヒマワス、既ニ危ク見ヘケル時、山ニ鼓ヲ打ツ事頻リニシテ忽チ雲登リ四天ニ蔽ル、甲良歯喫シ怒ッテ周章賊徒ヲ薙ギ倒シ、残ル奴等ヲ追散シテ佳人ヲ纏ムルニ、火忽チ天ニ向ヒ、飛雷ハ叢ニ有リテ草根発シテ共ニ鳴ズ」と記して居る。阿彦が使用した黒色火薬の知識は恐らく鄭鶴・徐章等より教わったのだろうが、それをどの様にして自給したかは分からない。火薬の原料たる硫黄と木炭は容易に入手出来るが硝石の方は困難であるから、堆肥等で代用したのかも知れない。
  阿彦の新兵器には他に石弓があった。これも支那大陸で発明されたもので普通の弓より余程強力である。弓では獲物を見てから弦を引きしぼるのであるが、石弓は前以て引きしぼられた弦が留め金で止められ、引き金をはずせばすぐに矢が飛び出す様になって居る。又、日本の弓には標準器がついていないが、之には標準装置が備わって居る。逃げ惑う甲良彦の兵士達の多数が此の石弓の犠牲になった。普通の矢ならば充分防ぎ得る甲良彦の武士達の鎧も石弓の強力には抗し得なかったからである。阿彦軍の狼兵に攻め立てられ、漸く麓迄たどりついたものゝ、其処は尚更危険な谷底であり、更に大谷狗の軍勢に背後からも攻撃されては策のほどこし様が無いので、甲良彦は急遽再び浅ノ谷盆地に全軍を進出させた。これで一応、全滅の危険は脱し得たけれども、四辺を敵に取り囲まれて居る事は同様であり、無惨に傷ついた敗軍の現状では、再び山峡の隘路を突破して脱出出来る可能性が無かった。
  阿彦方にとっては敵を浅ノ谷盆地に追い込んだのであるから、何時でも之を全滅し得る。それには成るべく味方の損害を少なくしたいので、敵の疲労が加わり食糧も尽きる迄待つ方が得策に思われた。それに勝ち戦ときまれば是非共為さねばならぬ緊急事態が眼前に起こって居たのである。即ち先に敵を驚倒させた火薬の爆発で燃え出した枯葉や枯草が所々に燃え広がって、此のまゝ放置すると山火事になる心配が多分にあった。阿彦は敵を急追するのを止めて先ず火を消す様に全軍に命じた。多数の兵士達の努力で火は完全に消されたが、その頃には日は已に没して暗が次第に戦場を覆って来た。それで尚更、今日の攻撃は不能となり、戦闘を明日に持ち越して浅ノ谷盆地の周囲をがっちり固め、甲良彦軍の動静を監視しつゝ夜営する事となった。
  元来今次の枯山城攻撃は椎摺彦の遠大な作戦計画に基づいて遂行されたので、甲良彦軍による西からの攻撃と呼応して、東からも天孫族軍の攻撃が行われる予定であった。此の東軍の大将には美麻奈彦が選ばれて居たが、彼は甲良彦軍の攻撃が開始されたにも拘らず、依然、長沢地域に留まって前進しようとしなかった。美麻奈彦は居城たる辰城で屡々阿彦軍の攻撃を受けた経験があるので、阿彦の強さを充分知って居り、独力で阿彦に勝てるとは思えなかった。敵と味方の力を詳しく考察計算して必ず勝てる予想の立たない限り敵を攻撃しない美麻奈彦であるから、甲良彦軍と同時に攻撃して、阿彦が甲良彦の方に一部の兵力を向け、自軍の方を主力で攻撃して来た場合には勝ち目が無いと計算し、甲良彦軍に阿彦の主力が吸引されるのを待って居たのかも知れない。しかし物見の兵の報告によって、甲良彦軍は惨敗したが、阿彦、大谷狗の殆ど全兵力が甲良彦軍に吸引されて居る事が分かった。甲良彦軍を包囲して居る現状では新手の敵が現れても、一部の兵力しか他に転用する余裕が無い筈だし、仮令阿彦が主力をひっさげて救援に駆けつけても、それ迄には少数の守備兵しか居らぬ枯山城を占領して阿彦を窮地に陥し入れるか、少なくとも枯山城を焼き払って敵の根拠を破壊する位の戦果は挙げれそうであった。そうして今や枯山城を攻撃する事が盟友甲良彦を助ける唯一の方法でもあったので、美麻奈彦はようやく全軍に出動を発令した。
  美麻奈彦は決して奇襲を行はない。しかし彼の軍勢は敵の如何なる策略にも対応出来る様に布陣や装備に万全の配慮がなされて居たので、敵の奇襲を恐れて自軍の行動を秘匿する必要も無かった。美麻奈彦は此の危険な夜間の進撃に即応して、軍勢を多数の小集団に区切って行進させ、夫等の各部隊には充分な量の松明を携行させた。
   阿彦は美麻奈彦軍が東方から進撃して来たとの報を受けるや、直ちに甲良彦軍の包囲を放棄し、至急枯山城に帰城する様に全軍に命じた。阿彦が尽忠の臣たる乱波岱、栃谷舅の仇、甲良彦の死命を制したにも拘らず、之をあきらめて天孫族の一部将にすぎぬ美麻奈彦に備えたのは、阿彦も亦、美麻奈彦を高く評価して居たからである。美麻奈彦が攻撃して来るからには彼に勝算があったからで、とても尋常の手段では防ぎようが無い。彼には石弓も強靱な盾に防がれて偉力が無く、火薬の爆発も音の大きさに比して破壊力に乏しい支那式武器の一種と見破られて居て驚かせ得ない。しかも正攻法で攻撃して来る彼を防ぐには、彼以上の兵力を集結して対抗するしか方法が無かったのである。
  美麻那彦軍の進撃も決してのろのろしては居なかったが、阿彦方の兵士達は何しろ機敏に山野を駆け廻る事で有名な狼兵達であったし、殊に勝手知ったる此の地域では夜道も一向苦にならず、美麻奈彦の尖兵が中保谷の防柵を突破した頃には已に全兵力が枯山城に集結してしまって居た。阿彦は松明をかざしながら整然と進撃して来る美麻奈彦の大軍を望見し、自分の方も奇策を弄せず堂々と敵を迎えて戦う決心で、山城の要所々々に大かがり火を焚かせ、各自松明を持って枯山城の防禦配備につかせ枯山城守備軍の威容を誇示した。斯かる阿彦の対策は予想通りの効果を発揮して、美麻奈彦軍の進撃は停止し、間もなく反転して、再び整然たる陣容を保ちつゝ遠く後退して行ってしまった。
  枯山城に点ぜられた多数のかがり火や周囲の重厚な防禦態勢から阿彦の全兵力が帰って来た事を悟った美麻奈彦は、最早や勝ち目の尠くなった攻撃を続行する様な冒険を好まない。自軍の進出によって友軍の危期を救い得た戦果だけに満足して、未練なく、しかし一兵を損なう事も無く引き下がって行ったのである。確かに甲良彦は美麻奈彦によって危期を脱し無事に辻城に帰還する事が出来たが、以後は敗残の軍を再建するのに懸命で再び枯山城を攻撃しようとは思わなかった。  絶好の機会に恵まれた今次の阿彦征伐が、非常に綿密に計画され、しかも天孫族系の全力を傾けての作戦であったにも拘わらず、阿彦を打ち果たし得なかったのであるから、今後の戦闘では天孫族軍の全面的敗北を見るに過ぎないと予見して、美麻奈彦も亦、尚も作戦中の椎摺彦や手刀摺彦の本軍を見捨てゝ、勝手に自分の居城たる辰城に帰ってしまった。美麻奈彦が一兵も損ぜずに甲良彦を救った事に就いては、伝説では何れも、美麻奈彦が魔術を解く特別な才能があった様に伝えて居る。例えば喚起泉達録では次の様に記してある。
 「サシモノ甲良彦、魔術ノ深キニ犯サレテ暫時睨ンデ佇ミケリ、蒐ル所ヘ美麻奈彦、將等佳人ヲ卒ヒテ馳セ来リ甲良彦ヲ介ケ、禁厭ノ法ヲ行フテ雲霧ノ穢ヲ祓ヒ玉フニ月桂忽チニ相満チ前途冷風ヲ起コシ、草露玉ヲ連ネテ平堪虹ヲ画ケリ、空天ヲ仰ギ見レバ夜既ニ央ナリ」。
 

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