4: 大若子命(オオワカコノミコト)の来援
 
   甲良彦軍は潰え、美麻奈彦は勝手に戦線を離脱して辰城に帰り、保身の対策に専心するに至ったので、神通川西岸に優位を占めて布陣して居た椎摺彦・手刀摺彦の本軍も亦、包囲殲滅の危機に直面した。大急ぎで全軍を卯辰山の中地山城に後退させようとしたが、神通川の上流地域 迄も縦長に分散配備した各枝隊を迅速に集結するのは困難を極めた。総大将の椎摺彦は武勇には勝れなかったが、仁徳ある温厚な人柄で、味方の一兵たりとも敵中に残して之を見殺しにする事は出来なかった。一身の危険を顧みず此の困難な後退作戦に従事したが、不安な戦況下にも拘わらず兵士達の間に大した動揺もなく、椎摺彦の命ずるまゝに部下の将兵達は良く働いた。阿彦方が水上の自由を失って居たのに反して、椎摺彦軍は強力な水軍によって神通川を制圧して居り、又戦線が神通川の本流に沿って延びて居たので、幸運にも船艇を充分に利用する事が出来、此の撤退作戦は奇蹟的な成功をおさめた。
   何時の時代でも名将と云われる人々には文にも武にも平凡な人が意外に多い。しかし彼等は温厚で先輩や同輩の反感を買わず部下からしたわれて居る点で共通して居る。いくら必勝の作戦を立てゝも、一ケ所でも命令通り動かない所があっては、全体の作戦が狂ってしまう。非凡な人はどうしても周囲から反感を持たれ易く、武勇に勝れた者は槍一本の功名で部将止まり、天才的な頭脳の持主もせいぜい参謀級にしかなれないのが普通である。椎摺彦の本軍は天孫族系の武士から成り立って居たので、最後の撤退作戦では大将の意のまゝに働いて大成功を収めたが、これ程の大将でも身びいきがあって、天孫族系の者と土着の郷士達を区別して取り扱い、本軍を比較的安全な後方作戦に使用し、土着の大将たる甲良彦や美間奈彦を阿彦攻撃の直接の矢面に立たせたのが、枯山城攻撃を失敗に終わらせた深因となった。
  岩峅からの援軍と合体した阿彦軍は、労する事なく直ちに失地を回復し、破壊された保障も夫々の旧守將達によって直ちに再建工事が進められた。しかし阿彦は、逃げ去った敵は最早眼中に無い様に、狼兵達を枯山城に返し、自らはそのまゝ来援の部下達と共に岩峅城に帰ってしまった。そうして此処岩峅城とそれ程遠くもない中地山城で戦備に忙殺されて居る椎摺彦軍を無視して専ら内政の仕事に力を注ぎ、部下の将士や領民達にも、来るべき冬に備へて食糧の貯蔵や燃料の蓄積等に努力する様に指令した。当時の武士は特別な幹部級の人々を除いて、殆どすべての者が自ら耕し或いは自ら狩漁する野武士や山武士達であったので、収穫の時期を戦乱に空費して大切な食糧を台無しにしては、兵自身もその家族達も食べて行けなくなる。又、現在の収穫の時期が農民から徴税する時でもあったので、戦乱によって彼等の収穫を台無しにしたり、納税されるべき物を取り損なったりしては大変である。先に海軍基地を失って他国からの物資の補給を受ける事が困難な自国の状況を最も熟知して居た阿彦は、椎摺彦の下に固く団結した天孫族への困難な攻撃を後日に延期しても、差し当たって収穫を済ませ越冬の準備をするのが最大の緊急事であると判断したのである。
  副将の鄭鶴・徐章も亦、同意見であったが、天孫族に固く仇怨を抱く狼兵達にとっては、直ちに敵を攻撃して椎摺彦等を打ち亡ぼそうとしない阿彦の態度には頗る不満であった。之等の山武士達は狩猟により四季を通じて食糧が得られるので、野武士に比べて農業に依存する度合いが少なく、将来の為に物資を貯蔵する習慣に欠けて居た。従って阿彦が絶好の機会を見過ごして迄、越冬準備に努力して居るのは理解し難い事であった。そうして之等の急戦派の最も熱心な主張者は、阿彦の姉、支那夜叉の息子で嘗て大彦命の為に父を失った支那太郎であった。
   阿彦は彼等の様に敵を甘くは見て居ない。内政にのみ専念して居るかに見えた阿彦も敵に対する謀略は着々と進めて居たのである。阿彦は天孫族陣営の強大な海上勢力と、椎摺彦を中心とする強固な団結力を特に重視した。彼は急戦派の云う様な無謀な攻撃は、海岸地帯で持久戦に誘い込まれ、やがて敵の海上勢力による奇襲と国内に於ける労働力の不足から、自国が経済的に破壊される危険のある事を承知して居り、更に天孫族の大軍が大和地方から来援する可能性も考えられるので、目前の状態にとらわれずに、遠大な戦略に基づいた対策を行って居たのである。天孫族系の総力を傾けた嘉礼谷攻撃が失敗に終わって以来、阿彦の勧誘に応じ椎摺彦の陣営を離脱して阿彦に降伏する土着の豪族が尠くなかったが、阿彦が最も力をそゝいだのは曲者、美麻奈彦であった。相互に幾度も密使を往来させた末、阿彦側の可成りの譲歩によって漸く不可侵条約が締結された。即ち阿彦が美麻奈彦の領土と主権を承認し之を侵さない代わりに、美麻奈彦は椎摺彦軍に加担しないで中立的立場を堅持し、交易によって塩や海産物等の阿彦方に必要な物資を供給する事になったのである。 美麻奈彦が天孫族陣営から脱落したと知れ渡ると、新に之にならって椎摺彦と絶縁する土着の豪族が続出した。斯くて阿彦は兵力を用いる事なしに中地山城を孤立化させるのに成功し、又、味方の越冬準備もほぼ整ったので、漸く急戦派の希望を容れて支那太郎に中地山城の攻撃を許可した。しかし今次作戦は辰城の前面に位置して美麻奈彦との交易を阻害する中地山城を奪取するのが目的である。阿彦軍が全力を傾けても天孫族に有利な海岸地帯での戦闘では、短期間に敵を海上に追い落とすのは容易でなく、戦闘が長引けばやがて深雪の冬期を迎えて戦闘が益々困難になる事が予想される。更に椎摺彦軍が孤立化したと云っても、中立を誓った美麻奈彦をはじめ、新に降服した豪族達は信頼出来る味方ではないので、彼等を威圧する為に相当の兵力を後方に残して置かねばならぬ現状であった。従って支那太郎には中地山城の攻撃以上に行動して、敵の海軍基地岩瀬浜に接近するのを固く禁止した。攻撃部隊も阿彦の正規軍を使用せず、殆ど狼兵達によって編成された。大谷狗・強狗良を副将となし、更に参謀として鬚荊坊・石走天狗の二人を選び血気盛んな支那太郎を補佐させた。彼等は支那太郎を養育した人物で、鬚荊坊は主として学術方面の教育を担任し、石走天狗は戦略・武術等を教えた。此の両人は鄭鶴・徐章等の帰化人を除けば、阿彦国の高志人の中で最高の学者に数えられた人達で、特に鬚荊坊は以前から大陸の文化に就いて良く知って居た様である。
  高志国全体を統治するのに適した場所として太田郷卯辰山が選ばれ、其処に堅固に築城された中地山城であったが、計らずも阿彦を敵とするに至り而も戦況不利な現状となっては、此処は敵の本拠岩峅城とあまりに近く、防禦するには不適当な位置にあった。又、各地に配置されて居た天孫族系の武士達がことごとく阿彦軍に追われて此処へ逃げ込んだので、さすがの中地山城も超満員となり、彼等の食糧を賄うのさえ大仕事で、このまゝ此処で越冬するわけにはゆかなかった。そこで椎摺彦は中地山城で籠城する様に見せ掛けつゝ、城兵を次々に岩瀬浜に移動し、手刀摺彦に命じて岩瀬浜基地に応急の防禦工事を急がせて居た。美麻奈彦が離反して食糧の補給が更に困難の度を加える様になってからは益々兵力を移動して中地山城を手薄にした。しかし敵襲の際には容易に後退出来る様に準備して居たので、支那太郎の攻撃に会うや殆ど抵抗らしい抵抗もせず、城に火を放った後、予定に従って遙か後方の岩瀬浜基地に後退して行った。退却する敵を急追する支那太郎軍は要所要所に用意されて居た敵の巧妙な妨害工作に阻止されて、行動の自由を奪われ終始敵に翻弄された。斯くて攻撃隊は椎摺彦・手刀摺彦と花々しく血戦して積年の怨みを晴らそうと気負って居たにも拘らず、あっさりと後退されて敵に何等の打撃を与える事も出来ず、反対に時々敵の仕掛けた策略に掛かって若干の損害さえ受けた。作戦の拙さが彼等を容易に脱出させたのだと、深く自ら恥じた支那太郎は、更に彼等を追って海岸に進出しようとしたが、軍監役の鬚荊坊や石走天狗に制止されて不本意乍ら軍を岩峅に帰さざるを得なかった。阿彦が心配した持久戦に誘い込まれる危険を無視しても、現実にこれ以上の追撃は敵の水軍による側面からの奇襲を覚悟せねばならず、又、無気味に静観する美麻奈彦の辰城を背後にする極めて危険な行動である事は、支那太郎も認めざるを得なかったのである。
 一説では中地山城を追われた椎摺彦・手刀摺彦は、随身して居た土着の郷士のみならず、純粋に天孫族系の者の中からさえ阿彦に寝返る者のある現状に、身の危険を痛感し、岩瀬浜基地に後退する味方の総勢の間からこっそり抜け出し、少数の腹心達と共に其処から遠く東して三谷の山中に隠れたと伝えて居るが、中地山城の東方で三谷と云う所はよく分からない。但し此の西方に当たる東砺波郡に三谷と云う所があるが、此処は嘗ての激戦地、浅ノ谷のすぐ南で大谷狗の監視下にあり逃亡地として全く不適である。更に西に行って石川県河北郡の山地にも三谷村があるが之も無理である。此の頃には高志の山地は一般に阿彦勢力圏で、何処に隠れても敏捷な狼兵達に発見されてしまうだろう。之に反して強大な海軍力を持って海を独占する椎摺彦方は海上の島々や海岸地帯にいくらでも適当な潜伏場所を選び得るのだから、好んで危険な山中に隠れ家を求める筈が無く、此の三谷逃亡説は納得し難く恐らく誤伝と思われる。 天孫族の最後の拠点、岩瀬浜迄後退した椎摺彦は、今や此処に全将兵を集結し大急ぎで防禦施設を増強して、当面する阿彦の攻撃に備えると共に今後の防衛対策を検討した。 
  高志の海は冬が豊漁期で大量に魚が獲れるし、其の他の必要な物資も舟を利用すれば容易に運び入れる事が出来るので、此処岩瀬浜では中地山城と異なって、領土の大部分を失った現状でも集結した多数の兵士達に必要な食糧や軍需品に事欠かない。更にこれからの酷寒、積雪の冬期は大規模な軍事行動が出来ないので現在の兵力で充分防ぎ得るだろうが、来春になって阿彦の本格的攻撃が開始された場合にも、良く防ぎきれるかどうかで意見が分れた。
  水軍を縦横に活用すれば阿彦軍も恐るゝに足らずとして、あく迄独力で抗戦しようと主張する側には若手少壮派が多く、山室郷(富山市山室)を支配して居た室生(ムロナリ)彦、三室郷の豊生(トヨナリ)彦、加積郷の久美(クミ)彦・幸(サチ)彦等が名を連ねた。しかし此の危機を脱する為には直ちに天皇に援軍を要請すべきであると云う意見の者も少なくなかった。
  採り得る方法が幾つもある場合に、その中から最良のものを選ぶのに議論や多数決に依らず神託を利用するのが日本神道の仕方である。そうして神託は神懸かりした巫女によって告げられるのが普通である。近年になって誰でも安易な気持ちで神懸かりを利用するので信用が無くなり、一般には精神異常者のたわごとか、好意的に見ても自己暗示による催眠状態の産物と思われて居る。しかし神道が発明した神懸かりは、原始社会にある盲目的な呪術と異なって、可成り高級な文化技術である。神懸かりの状態そのものは勿論催眠状態に過ぎないので、被術者の語る神託の内容は、被術者の学識の程度の応じて高級にも低級にもなる。従って神懸かりする巫女には、健全な精神と高い教養を身に付けた身分の正しい女性が選ばれる。巫女が催眠状態に入って神託を告げても其の内容が不適当な事が多い。斯かる場合には懸かった神が邪神であったり低級な霊であると見なして、其の好ましからざる神に帰ってもらい、改めて正しい神のお告げを求める。再度試みても納得出来る神託が得られぬ場合には、他の巫女で行わねばならない。此の様に神託を取捨して都合の良い指示を引き出す役目の人を審神者(サニワ)と云って、最高の学識経験者が選ばれる。従って実質的には審神者が最良と考える事が神託となって告示され、人々は無条件にその神託に従う事になるから、立派な人が審神者に立ちさえすれば神懸かりも頗る有益である。
  正しい方式では先ず四囲を清掃し、祭壇を設け、諸々のケガレを祓った後、弓の弦を鳴らして巫女を催眠状態に導き、彼女の身体が震え出し充分に神懸かりに成った処で、出現された神の御名前を聞くのである。
すると巫女は乗り移った神の名を告げるが、此の神は一柱の事もあり数柱の事もある。次いで神託を聞く。其の神託が審神者の意に満たない時には、彼は神託に関連した難解な質問を色々と其の神に求める。学識豊富な審神者の意地悪い質問に答える為には巫女は大変苦慮せねばならず、やがては答え切れない部分が生じ、沈黙してしまったり間違った返答をしたりする。邪神が懸かると霊媒が非常に疲れるのはこの為である。
  椎摺彦も議論によって決定する事の出来なかった援軍要請の可否を神託に求め、自ら審神者となって「援助を求むべき」旨の神示を得た。これで大和朝への援軍要請は絶対となったが、天孫族の武将達は味方の敗戦を報告して援助を求めるのは、面目上どうも気が進まないので、使者の大役を引き受けて大和へ行く事を承諾する者が無かった。そこで色々協議の末、畔田早稲彦(クロダハヤネヒコ)がよかろうと云う事になった。
  如何なる改革も保守勢力の反感を招かなかった例は無い。阿彦の改革が余りに急激に進められたので、阿彦一族の中にも彼の新政策に憤って遂に天孫族の下に走った者も居た。阿彦の伯父、早稲彦も熱心な神道支持者で天孫族に味方した一人である。彼は以前黒牧彦と云ったが天孫族側に附いてから早稲彦と改名したのである。早稲彦は思い掛け無く重要な使者に指名されて困ったが、若し固辞して椎摺彦等の信用を失い、阿彦と天孫族の両方から敵視されては大変なので、謹んで使者の役を引き受け大和国珠城(タマキ)宮に行き、天皇に阿彦の乱暴と味方の窮状を訴えた。時に垂仁天皇81年1月中旬だったと伝えられて居る。
  斯くて天皇は大若子命に「標(シルシ)の剣(ツルギ)」を与え、阿彦討伐を命じ給うた。事態は緊急を要したが折悪しく冬期に当たるので、有名な高志国の大雪を避けて出発は桜の蕾もほころびる旧暦三月以後に延期された。「喚起泉達録」では「標剣」を三種の神器の一つとし、「草薙の剣」と同一視しているが容易に信じ難い。北陸の地方伝説も尊重して、単に天皇の代理である事を証明する為に与えられた剣と考えた方が無難である。
   大若子命の血統に就いては非常に多くの異説があって本当の事は分からないが、垂仁25年に行はれた伊勢国五十鈴川の皇大神宮鎮座祭に垂仁天皇の御供をし、其処の大神主になられた事が「神宮雑例集」に見られるから、神道政治の最有力者の一人であった事は確かである。「延喜十四年官進度会神主氏本系帳」「日本紀神代巻講述鈔」等に依れば、彼は天牟羅雲命の子であると云われ、或は天波与命の子、或は天日別命の第二子、或は彦由都久祢命の第一子、或は彦楯津命の第一子、或は彦国見賀岐建与命の第一子、或は彦久良為命の第一子であると云われて居る。そうして更に伊勢神宮外宮の神主、度会(ワタヒラ)氏の始祖になられた方であると信ぜられて居る。後世になって天皇が仏教の教理に従って日本の政治を指導された頃の仏教最盛期には、各寺院毎に多くの僧兵が居て強大な武力を保持して居たが、仏教が渡来する迄は政治は神道に従って行われて居たので、同様に各神社毎に神人と称する武装した荒武者達が附属し、強大な軍事力を誇って居た。神社の神主は神人達の主将であったから、日本に於ける最も重要な神社の一つである伊勢皇大神宮の大神主に任命された大若子命は、垂仁25年の頃には已に大将級の武将だったわけである。「神宮雑例集」に依れば彼の率いる神人は大伴一族と並んでその武勇をたゝえられて居た物部八十友の諸人であった。大若子命が大神主になった時から今度の阿彦討伐を命ぜられた垂仁81年迄に已に56年を経過して居るので、彼の年齢は百才近くに計算され、更に大彦命の高志国征伐を経験した阿彦は、其の時以来140年を経過して居て非常な高齢となる。阿彦よりももっと年長の筈である支那夜叉が尚妙齢の美人として活躍して居るのを見ても、之等の年号の記載は矛盾に満ちて居り全く信ずるに足りない。しかし当時の日本歴史は未だ神話時代から抜け切って居らず、正史の中でさえ各所に年代の飛躍や引き延ばしがあって、地方伝説に見られる斯かる矛盾は驚くに当たらない。其後の大活躍から見ても大若子命や阿彦は当時なお壮年期で已に老令に達して居たとは思えない。
  高志国遠征軍の集結地は難波の浦(大阪)であった。やがて遠征軍の陣容も整ったので、大若子命は精鋭な之等の皇軍と共に垂仁31年3月難波を船出した。当時此の辺一帯は淀川を軸として大小の湖沼が迷路の如く入り乱れて居たので、大部隊の移動には陸行するよりも舟行する方がはるかに便利であった。先ず淀川を遡り次いで琵琶湖を渡り、更に此処から陸行して同年4月21日高志の筍飯(ケヒ)の浜(越前の敦賀)に到着された。此処には婦負郡杉山(後に猿谷と云う)の住人、佐留太舅(サルタジ)が陸路から出迎え、加志波良比古の後胤たる珠洲の近藤が高志の海上勢力を従えて海岸に待ち合わせる計画であった。しかし、大若子命が佐留太舅と福泉(フズミ)越前国疋檀 (ヒキダ)の松原で出会った時には、まだ近藤の船勢は到着して居なかった。
  佐留太舅はどの伝書でも猿田彦の胤と記されて居る。彼は阿彦に味方した大谷狗と同様の山武士であったが、遠祖から天孫族と婚縁関係もあり、又深く神道を奉信して居たので天孫族の陣営に従って居たのである。しかし彼の部族は特殊な社会組織を持って居て、同族の指導者であった佐留太舅も決して首領ではなく、同族の各人の間に主従の関係が見られなかった。そうして斯かる同権的思想の伝統から必然的に、彼等は阿彦にも椎摺彦にも更に大若子命にも、家来としてゞはなく対等の資格で応接して居た様子が伝説の各所で目立って居る。福泉の松原で大若子命の大軍を迎えた時の佐留太舅の態度も頗る尊大無礼なものがあった。
  彼は髪を嘉良和に結び、白の下袴、紺の麻の直垂を着し、勃起した大陰茎を露出させて(一書には銅鉾をたずさえ)高さ三尺の乗物に乗ったまゝ、同族約30人と共に大若子命の途すじを占拠して居た。大若子命は之等の小勢ながら傲慢で異形な者達に驚き、小浜の羽矢女(或は早見)と云う侍女に命じて彼を誰何させた。「喚起泉達録」の記載では「はやめハ是ヲ見怪ミ怒ッテ云ハク、如何ナル者ゾヤ爰ニ到リ玉フハ大若子命ナリ、未ダ知ラズヤ異形ニシテ是ニ立テリ、命ヲ卑シメ奉ル、早ク去レ、ト罵リケルニ、此ノ人騒グ気色モナク大音声ニ答ヘケルハ、我ハ越ノ中五杉山ノ住人佐留太舅ト云ウ者ナリ、神猿田彦ガ末胤タリ、王命ヲ蒙リ凶賊阿彦退治ノ為当国ニ天サガリ玉フトホノカニ聞キ、我神ノタメシヲ追ッテ御迎ヒニ出タルナリ、命ニ早ク見エ奉ラント乞フ、はやめ聞キテ、汝如何ナレバ高キげたニ乗ル、命ヲ恐レザルカ、佐留太聞キテ、手ニハちんほこヲカゝゲテさずきニ乗ル事、是レ神ノ古風ヲ仰ギ命ヲ賀シ申スナリ、命能ク知リ玉フベシ、今此ニ汝ノ咎ムルナシ、ト答フ」とある。
  椎摺彦の海上勢力は奈呉の海(岩瀬浜近海)や布勢の海(氷見浜近海)を制圧して居たばかりでなく、遠く能登半島方面の船舶もすべて支配下に置いて居たのであるが、大若子命の卒える多数の兵士達を輸送するのに必要な百隻以上の大型船舶を用意し、更に夫等を巧みに操る老練な船頭を舟の数だけ集めるには容易な事ではなかった。しかし老朽船を修理したり、尻込みする船頭を上手に説得して参加させるなど、多くの苦心を重ねた甲斐あって計画通りに百余隻の堂々たる大船団が編成された。珠洲の近藤が此の船団を指揮して筍飯の浜に向かったが、其処に到着したのは予定より遅れ、大若子命が佐留太舅と出会った数日後になった。しかも折からの悪天候に見舞はれ、軍兵を満載しての航行はとても無理とあって、大若子命軍の敦賀出帆は更に数日間延期された。斯くて椎摺彦等が岩瀬浜基地に大若子命を迎える事の出来たのは4月を越えて同年5月1日早朝となった。
  当時越中地方には斯かる大船団を収容するに適した港は2カ所しかない。一は岩瀬港であり一は伏木港である。何れも河口港であり各々其の背後地は天孫族系の勢力範囲であったから、大若子命はどちらに上陸しても良かったわけであるが、椎摺彦方の強力な海上勢力と自分の卒える陸の精鋭部隊の前には、精強の聞こえが高い阿彦の軍勢も何等恐るゝに足りぬ存在に思はれたので、阿彦の実力を不当に軽視して、一撃の下に平定するつもりで、敵の本拠に近い岩瀬浜を選択されたにであろう。此の進軍の経路は先に孝元天皇(第8代)によって高志の地方長官に新任された日子刺肩別命が越中砺波地方に進出された時の経路と奇しくも一致する。日子刺肩別命の第一回目の壮挙から今度の第二回目の進軍迄に、史書の上では約二百年を経過するが、之も短縮して考えた方が理解し易い。此の頃の日本史は約四倍に引き延ばされて居るので、実際は50年程後の事件であろうか。
  岩瀬浜は阿彦軍に追いつめられた椎摺彦方の兵士や彼等の家族達で満員である。従って此の基地には大若子命の大兵を新に駐屯させる程の余裕が無い。仮令余地があったにしても女色に飢えた遠来の荒武者達に椎摺彦方の婦女子が暴行される心配があったので、椎摺彦が大若子命と少数の側近者だけを岩瀬浜に迎えて、遠来の労を謝しつゝ阿彦との戦況を説明して居る間に、手刀摺彦は近藤に命じて船団をそのまゝ神通川へ導き、大和からの援軍を岩瀬浜基地の上流に位する草島方面に上陸させた。大若子命も狭小な岩瀬浜で椎摺彦と同居するつもりは無かったので、やがて椎摺彦に案内されるまゝに、前以て現地の人々によって計画され準備されて居た呉羽の小竹に進出し、此処に全軍を駐留させる事になった。 うか。
  岩瀬浜は阿彦軍に追いつめられた椎摺彦方の兵士や彼等の家族達で満員である。従って此の基地には大若子命の大兵を新に駐屯させる程の余裕が無い。仮令余地があったにしても女色に飢えた遠来の荒武者達に椎摺彦方の婦女子が暴行される心配があったので、椎摺彦が大若子命と少数の側近者だけを岩瀬浜に迎えて、遠来の労を謝しつゝ阿彦との戦況を説明して居る間に、手刀摺彦は近藤に命じて船団をそのまゝ神通川へ導き、大和からの援軍を岩瀬浜基地の上流に位する草島方面に上陸させた。大若子命も狭小な岩瀬浜で椎摺彦と同居するつもりは無かったので、やがて椎摺彦に案内されるまゝに、前以て現地の人々によって計画され準備されて居た呉羽の小竹に進出し、此処に全軍を駐留させる事になった。

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