甲良彦の離反防止に成功した大若子命は、余勢を駆って重点を美麻奈彦の取り込み作戦に集中した。美麻奈彦の計算によれば両陣営の戦力は現在では互角であるが、将来性を考えると天孫族側には豊富な後続兵力が控えているし、京都方面の天皇勢力に衰退の徴が見られないので、此の時期に大若子命に反抗的な姿勢を見せると、遠い将来には阿彦共々抹殺されてしまう心配がある。慎重で計算に強い彼は、大若子命から郷將の筆頭に推された好条件を受け入れて、中立を放棄し大若子命側に加盟した。
相次いで天孫族側の策略が成功し、士気大いに上がり、攻撃準備もほぼ整ったので、大若子命は愈々阿彦討伐の為に攻撃軍の編成を急いだ。此の時、突如として姉倉媛がお節介にも出現し、八構布を与えて阿彦の妖術を封じ皇軍を勝利に導いたとの説話は、多くの伝書に詳しく記載されていて有名である。
姉倉媛は此の時代より遙か以前で、天孫降臨後の程遠からぬ時期に活躍したとされている高志出身の女神である。彼女は婦負郡舟倉山に住み、附近一帯を支配して精強な軍隊を持ち、当時の高志国で最も強大な勢力者であったが、縁あって天孫族系の神、伊須流比古命(イスルギヒコノミコト)を舟倉山に迎えて結婚した。此の男神は天孫降臨の際に付き従った三十二柱の神々の末席に連なって下界に降り、補益山に住み着いていた。補益山は今の宝達山とする説と、石川県羽咋郡にある志雄山であるとする二説がある。やがて伊須流伎比古命は現在の氷見市に近い仙木山の女神能登媛と知り合いい、恋愛関係に陥いり、遂に姉倉媛の下を逃げ出し、仙木山に行き能登媛と同棲した。怒った姉倉媛は軍勢を引き連れ、布倉山に住む妹の布倉媛の軍勢と連合して能登媛一族の守る仙木山を攻撃した。しかし勝敗は容易に決せず、為に動乱は益々拡大して高志国全体が両陣営に分かれて戦い国中が大いに乱れた。やがて出雲に住む大国主命の調停によって、さしもの大動乱も漸く終息されたが、此の様な混乱を引き起こした姉倉媛には懲罰として、彼女の船倉山の領地を没収し、以後、小竹野に蟄居して土着の人々に機織の技を教える様に厳命されたと云う。此の小竹野の地が現在の呉羽にある姉倉媛神社であるとし、之を証拠立てる為に、彼女が織物をしている時、その地の地面に沢山散布して居た蜆の殻が、美しい蝶と化し周囲を群がり飛んで彼女を喜ばせたと云う説話が付加されて居る。実際に現在でも此の神社の境内には多数の蜆貝が露出して散在するが、此処は蜆森貝塚と名付けられた縄文前期の貝塚遺跡地で、地下に約一米半の厚さで濃密に蜆貝の貝殻層が埋蔵されて居る場所だから異とするに足りず、姉倉媛定住の伝承とは全く関係が無い。呉羽の此の地区からは大小多数の貝塚が発見されているが、此の蜆森貝塚は特に貝殻の大部分がヤマトシジミで、他に少数の淡水産貝類オオタニシやヌマガイを混在するだけの特異な貝塚として知られて居る。一方、大若子命軍が集結した小竹野は現在の高波村・若林村・林村地区を指すと主張する砺波駐屯説では、姉倉媛が製造した白布の生産地として小矢部市八講田が、又、幡竿として使用した八節の竹の産地として八講田に隣接する八伏を当てヽ辻褄を合わせて居る。
「喚起泉達録」では呉羽の小竹野に集結した大若子命軍は姉倉媛の神示に従って、直ちに岩峅を攻め阿彦を退治しているが、「肯構泉達録」では先ず呉羽の小竹野から遠い枯山城を攻撃し、阿彦が逃げて岩峅城に移動したので、之を追って岩峅を攻め、遂に悉く兇賊を討ち取ったと記して居る。之に対し小竹野砺波説を主張する「高波八幡宮社記」では記載が簡単で、戦闘経過の詳細は不明であるが、八構布授与の経緯に就いて次の様に記されて居る。
「越小竹野ニ玉趾ヲ留メ給ウ、然ル所ヘ白姥進ミ出、命ニ告ゲテ曰ク、兇賊妖術ニ長ジケレバ恐ラクハ命彼ニ欺カレ給ランコトモ在ラン、昔大巳貴命荒地ヘ天降リテ日鉾ヲ立給フ、命之ニ従ヒ給ヘト八構布八折ヲ授ケ玉フ、命不思議ニ想ヒ其名ヲ問ヒ玉ヘバ、我ハ姉倉比賣也ト答ヘ玉フニ拠リ、命神ノ教ヘニ従ヒ、八鉾ノ幡ヲ作リ阿彦ヲ攻メ玉フ」
即ち、天皇系の神々に頼るよりも土着の大巳貴命(大国主命)や姉倉媛の神通力に頼らなくては、阿彦の妖術に打ち勝てないと主張した身勝手な宣言で、唯々として老女の申し出に従った大若子命の言動も軽々しい。元来姉倉媛は大国主命から贖罪の為に機織の業を科せられた神であり、仙木山攻撃で能登媛にさへ勝てなかった神であるから、大して神通力に勝れた神とも思えない。尤も其の頃以来の長年月の経過に配慮した為か、此の時出現した彼女は白髪の老女の姿である。 又、姉倉媛神社の真偽を争う両説に就いては、現在では殆ど阿彦伝説が忘れ去られた富山地区に対し、栴檀野や砺波地区では今尚、民話の中に根強く生き続けている上に、此の民話で伝えられる阿彦軍を攻撃する順序が、地理的に最も合理的と思はれる点で、小竹野を砺波地方とする方に説得力がある。更に、嘗て姉倉媛が大国主命によって罰せられ小竹野に流刑にされたと伝書に伝えられて居るのも、呉羽の小竹野では当時最も人口の多い場所の一つで、しかも姉倉媛の住んでいた舟倉山から僅かに八粁位しか離れていないので、流されたとする表現は不適当で、遠方で辺鄙な砺波地方の小竹野に追い払われたとする方が合理的であろう。大若子命の本軍は呉羽の小竹野に駐留したが、郷士達を主力とする強力な支隊を枯山城攻撃の為に高波村付近の砺波小竹野に集結させて両面作戦を計画し、之等の郷將達にも大谷狗の魔術封じとして姉倉媛由来の八構布の白旗が大若子命から下賜されたとすれば、重要な岩瀬浜基地の警備を空にする危険を顧みずに、大若子命が自ら高波地方迄出向いて戦闘に参加する必要が無くなって、伝承の矛盾や混乱が合理的に解決され、充分納得出来る。
尤も此の姉倉媛の出者張り説話自体が、姉倉媛神社の関係者によって祭神の霊験を宣伝する為に、後代になって阿彦伝承の中に便乗させた欺瞞策の名残らしいが、永く引き継いで伝承された実績に敬意を表して、伝承通りに物語を進める事にしよう。
さて大若子命は恭しく献上された地場産の八構布を利用して部隊の目印となる八本の白旗を作り各部将達に配布した。敵方の戦法や戦力を見極める為に、先ず目障りな枯山城から攻撃する事にし、高波村・若林村・林村一帯に集結させた天皇方に従属する総ての郷土系の豪族達に率いられた多数の兵士達の軍勢に、更に自分が引率し或は来援した皇軍の半数を加えて大兵団を編成し、椎摺彦を此の手の総大將として大谷狗の守る枯山城に向わせた。 郷土隊長の筆頭に据えられた美麻奈彦は、大谷狗の実力を高く評価して居り、阿彦との中立条約を一方的に破棄して参戦した事情もあって、今次の攻撃には極めて消極的であり、猛將甲良彦さへ、先程の交戦で阿彦方の奇策や新兵器に翻弄されて敗退した経験から、先頭に立って強引に攻撃する様子が無いので、大谷狗の狼兵達の精強を熟知する他の郷將達も挙って尻込みし、至って意気の上らない出陣となった。しかし大若子命が追加した天孫族系の武士達は、武勇に名高い物部八十友の諸人で、阿彦軍を高志の蛮人達と軽視していたので、椎摺彦は彼等の気勢にあふられて、之等遠来の増援隊を先陣とし、大挙して枯山城に進撃した。